倉科庄(読み)くらしなのしよう

日本歴史地名大系 「倉科庄」の解説

倉科庄
くらしなのしよう

倉科庄の初見は、「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に載る年貢未済荘園の中にみえ、「九条城興寺領倉科庄」とある。当時は京都九条の城興寺の荘園であったことが知られる。倉科の地名は更に古く「和名抄」に埴科郡七郷の一つとして「倉科」とある。

建武元年(一三三四)の雑訴決断所牒(市河文書)によれば、

<資料は省略されています>

とあり、地頭である彦四郎が、倉科庄の下地を押領し、年貢の横領をして、領主である城興寺へ納められなくなっていた。翌建武二年の同牒には更に、

<資料は省略されています>

とあって、地頭方には如意寺僧正がいるものの全く裁決に立ち会わないため、先の城興寺の訴もなかなか進展をみないでいることがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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