日本歴史地名大系 「光岡城跡」の解説 光岡城跡みつおかじようあと 大分県:宇佐市旧四日市町地区赤尾村光岡城跡[現在地名]宇佐市赤尾 光岡赤尾(あかお)谷の西側の標高約一四〇メートルの光岡山の頂上部に立地し、比高は約九〇メートル。当地からは宇佐・中津方面はもとより周防灘や国東(くにさき)半島も眺望できる要害の地である。史料上では赤尾三河入道の切寄、後世の編纂物には山名をとって光岡城とある。平面プランは隅丸方形状を呈する単郭型式の山城で、県指定史跡。観応二年(一三五一)正月日の土井種世軍忠状(成恒文書)には「宇佐郡赤尾所々」とみえ、赤尾より凶徒等が出没したため、同月一九日土井種世は宇都宮山田三郎の指揮下に属して猿渡(さるわたり)に出撃、敵を退散させたとある。この頃赤尾氏は反足利尊氏となり、この地域になんらかの軍事施設を築いていたことが推察される。文安三年(一四四六)六月二一日の武勝書状(今永文書)に「赤尾城」とあり、本格的な城郭の存在が知られるが、当城をさすのかどうかについては判然としない。赤尾家系書上帳案(古寺敞文書)に寛正二年(一四六一)赤尾種遠が光岡山の麓に築城したとあり、これは居館の構築を意味している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by