赤尾村(読み)あかおむら

日本歴史地名大系 「赤尾村」の解説

赤尾村
あかおむら

[現在地名]坂戸市赤尾

島田しまだ村の東にある。北西境を北東へ流れる越辺おつぺ川が北端で流れを南東に転じ、東境を流れ下る。東は同川を隔て比企郡中山なかやま(現川島町)、北は同川を境に同郡正代しようだい(現東松山市)。承元四年(一二一〇)三月二九日の小代行平譲状(小代文書)には、行平から養子俊平へ譲られた小代しようだい(現同上)の村々のうちに「みなみあかをのむら」がある。現越生おごせ最勝さいしよう寺旧蔵の応永三年(一三九六)の大般若経奥書に「赤尾阿弥陀堂海禅」とある(武蔵史料銘記集)。戦国期に当地に来住したと伝える安野・森田・林・池田・山崎・新井の六家が草分百姓とされる(元禄一二年「田畑町歩村高覚」森田家文書)。林家は信州諏訪地方から来住した土豪ともいわれている。近世には入間いるま郡河越領に属した(風土記稿)。慶長二年(一五九七)の入西郡上赤尾村検地帳写(森田家文書)が田方分のみ残り、田四五町五反余、大学・兵部など六名の分付主のもとに分付百姓の記載がある。田園簿では赤尾村とあり、田七七二石余・畑一五四石余、川越藩領(一七七石余)と旗本大久保領(七四九石余)。ほかに川越藩領分の野銭永一貫二五〇文、大久保領分の野銭永四貫文があった。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一八五石余、反別は田一五町三反余・畑八町五反余、同帳に付け加えられた新田分は高二八石余、反別は田二町三反余・畑一町三反余とある。元禄一一年(一六九八)以前に全村が川越藩領となり(「村明細帳」林家文書)、以後幕末まで川越藩領で、慶応二年(一八六六)以降も同藩領(同三年「領分替引渡諸役用向筆記帳」安野家文書)


赤尾村
あかおむら

[現在地名]塩山市赤尾

千野ちの村の南、上於曾かみおぞ・下於曾両村の東にある。南流するおも川の西岸に沿う。北(上)・中・下の三組からなる。地名は赤埴あかはに山の尾崎にあることにちなむという(甲斐国志)。永禄四年(一五六一)の番帳にみえる一六番の「あかをの禰宜」は当地の大石おおいし神社の神職とみられ、府中八幡の勤番を命じられている。慶長古高帳によれば高五八一石余、幕府領。ほかに大明神(現大石神社)領四石余があった。寛永一〇年(一六三三)から旗本大久保領(元禄郷帳・「寛政重修諸家譜」)、宝永二年(一七〇五)甲府藩領、同七年からは甲府新田藩(柳沢経隆)(「甲州御分知郷村高割帳」柳沢文庫)。享保九年(一七二四)幕府領になって支配代官は石和・川田・石和と交替した。天保三年(一八三二)からは田安家領(御料私料高別調)

宝永二年の村明細帳(保坂幸義家文書)では家数一一一(本百姓九九・水呑一二)・人数四一二、馬一六。畑作物は大根・芋・茄子・蕎麦・もろこし・夕顔などのほか換金作物として煙草があり、夏作は田畑ともに大麦・小麦であった。


赤尾村
あかおむら

[現在地名]木之本町赤尾

西山にしやま村の南、しずヶ岳から琵琶湖北東岸を南に走る地塁山地の東麓に位置し、東部を余呉よご川が南流する。北部に枝郷北布施きたふせ村がある。四十八万しじゆうはちまん鎌田かまだふじまちに古墳が認められ、余呉川左岸につぼつぼなどの地名があり、条里遺構も近年までみられた。中世土豪赤尾氏が当地を本拠とし、数町にわたる濠をめぐらす館跡が残り、濠内にじやヶ池という池がある。天正一一年(一五八三)賤ヶ岳の戦では当地も兵火で罹災。同一三年閏八月の山内一豊知行目録(山内文書)に「拾石 赤尾」とある。慶長七年(一六〇二)の検地帳(「太閤検地論」所収)によれば田五六町九反余・高九〇九石余、畑七町六反余・高七八石余、屋敷一町六反余・高二二石余。名請人数二一〇、うち三反以下一四九、屋敷筆数六六。寛永石高帳では彦根藩領(幕末に至る)。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数四七七、うち寺社方四。


赤尾村
あかおむら

[現在地名]小松町明穂あかほ丹原たんばら町明穂

道前平野の南西端に位置する。東は大頭おおと村・大江おおご村に、南は楠窪くすくぼ(現丹原町)に、西は安井やすい村に、北は田野たの(現丹原町)・大頭村に接する。南に山を背負い、村の北端を中山なかやま川が東北に流れる。村の西方の安井村寺尾てらお(現丹原町)の間の字安養寺あんようじ(現丹原町明穂)に飛地があり、明治初期に田一三町四反余、畑二町九反余、宅地一町余があった。また寺尾村にも飛地があったという。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項に「高五百四拾石弐斗八升九合田方三百五拾弐石四升七合 畠方百八拾八石弐斗四升弐合 赤尾村 林山有、小川有」とあり、元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記にも同石高で松平隠岐守知行とある。天保郷帳でも「高五百四拾五石五斗九升七合 赤尾村」とほとんど変化がない。村名は宝永七年(一七一〇)の「周布郡大手鏡」でも同じだが、同書には明穂村とも異記される。

原始時代は周布郡山麓原始文化圏の一環であり、石包丁・石鏃・石槍などが発見されており、早くから開けたと思われる。


赤尾村
あかおむら

[現在地名]宇佐市赤尾

佐野さの村・今仁いまに村の東に位置し、北は大根川おおねがわ村など、南は下毛郡上深水かみふこうず(現三光村)。村域は南の丘陵地帯から北の低地に細長く展開する。幕末頃には上赤尾・中赤尾・下赤尾・笠松かさまつの四ヵ村に分村した。弘長三年(一二六三)三月二八日の沙弥覚念田畠屋敷譲状(永弘文書)によると、覚念は子息である僧神釈に高家たけい郷内の「室田弐段御封田、赤尾杭瀬原放」などを譲っている。なお田原紹忍の裏花押がある年未詳一月一三日の今仁掃部助知行坪付注文(渡辺兼作文書)に「一所五段 光隆寺領かさ松名」とみえる。小倉藩元和人畜改帳では高二千四〇石余、人数五〇五、百姓七〇(うち庄屋七)・名子一七・鍛冶一・大鋸引一・社人一・牢人二・坊主一、牛五三・馬二二。天保九年(一八三八)の巡見御用答手控帳(古寺家文書)によると高二千八三二石余で、この反別二〇九町六反余、家数二一〇・人数八二二、牛馬八〇、山札七四枚(九四匁)を有し、村内に御立山五ヵ所、寺五・神社九があった。


赤尾村
あかおむら

[現在地名]有川町赤尾郷あかおごう

小川原おがわら村の東に位置し、北部は有川浦に臨む。沖合に野案中のあんぜ島・やま案中あんぜ島が浮ぶ。南に丹那たんな山・たぬき山がある。明徳三年(一三九二)六月二二日の番立結番注文案(青方文書)うめさき会所(現平戸市)に会合した五島住人二八人のうちの一人として赤尾氏がみえ、結番次第を定めている。江戸時代は福江藩領で、有川掛に属する。寛永一八年(一六四一)有川の者が赤尾沖に停泊した唐船に近づくと唐人らが鉾で突散らし、明礬を飛礫にするので、繰返し船に押寄せているうちに有川庄屋の藤左衛門が頭に負傷、唐船は碇を切って走り出したという。


赤尾村
あかおむら

[現在地名]打田町赤尾

東大井ひがしおおい村の東に位置し、南は広野ひろの村、西北は勢田せいだ村、東北は南志野みなみしの、東は上田井こうだいの両村(現粉河町)に接する。村の北にかみノ池・礎太そだ池などの溜池がある。慶長検地高目録では高五〇一・四五四石、小物成七升二合。慶長六年(一六〇一)の赤尾村御検地帳断簡(法泉寺蔵)によると田方は四七五・五三八石(三一町四反余)、畠方は二六・〇二一石(一町八反余)、蜜柑木五本、家数三一(役人二四・庄屋あるき二・寺一・後家下人四)。田中組に属し、延享元年(一七四四)の田中組大指出帳写(桂原家文書)では家数四三で内訳は本役二四・半役一二・無役二・庄屋一・肝煎二・あるき一・寺一、人数は二二九、馬二、牛二三、岩出いわで(現岩出町)麻生津おうづ(現那賀町)竹房たけふさの渡船代として合せて米二斗六升、麦三斗を出すとある。


赤尾村
あかおむら

[現在地名]袋井市高尾たかお大門だいもん

山名やまな郡に所属。高部たかべ村の東、小笠山おがさやま丘陵の先端部、法多沢はつたざわ川と小笠沢おがさざわ川の合流地に位置する。永禄一二年(一五六九)一二月吉日の経聞坊良雄譲状(経聞坊文書)に「赤尾」とみえ、良雄は当地ほかを小僧某に譲っている。慶長二年(一五九七)一二月の榛原郡外勘定免目録(一豊公紀)に赤尾村とみえ、掛川城主山内一豊蔵入地、高一五七石余、うち定物成高七五石余。その後幕府領掛川藩預となっていたが、正保二年(一六四五)横須賀藩領(掛川預一万石郷村覚)正保郷帳では田方九三石余・畑方一五石余、ほかに長楽ちようらく寺・善養坊・阿弥陀塔(阿弥陀堂か)領各五石、横須賀藩領。


赤尾村
あかおむら

[現在地名]芦原町赤尾

北潟きたがた湖の南西岸に位置する。北潟湖を挟んで北は北方きたがた浦、南東はかき原十楽はらじゆうらく(現金津町)。永仁五年(一二九七)の坪江下郷検注記録(大乗院文書)に「赤尾 四町九反三百歩」とみえ、また室町中期以前の記録と思われる「坪江下郷三国湊年貢夫役等事」(同文書)にも同様の記載があり、さらに赤尾が政所名であったことがみえる。

天正一三年(一五八五)堀秀政が多賀源介に与えた知行安堵状(多賀家文書)には「赤尾村」(二三三・四八九石)が含まれており、慶長六年(一六〇一)結城秀康が多賀谷三経に与えた知行宛行状(多賀谷文書)にも赤尾村(二九四・〇六九石)がみえる。


赤尾村
あこおむら

[現在地名]桑名市赤尾・西正和台にしせいわだい

現桑名市の南西部にあり、能部のんべ村の西に位置する。南は丘陵地。「神鳳鈔」に「久米郷外宮神田五丁三反、同郷用永二丁」「久米郷司職田二丁」とあり、「三国地志」では「按今赤尾村に此の郷名存すと云」とある。また「外宮神領目録」に「平田御園三斗内」とあるが、当村内に平田御厨ひらたみくりや神明社がある。中世の赤尾城跡があり「昔赤尾氏ココニ居城セリト云ヒ伝フ、嘗テ刀剣ヲ堀リ出セリトイフ」(員弁郡郷土資料)と伝えられるが、詳細は不詳。織田信雄分限帳には「当知 八百貫 いなへ大社郷六百貫 いなへ赤尾郷二百貫 津田清次」とある。


赤尾村
あかおむら

[現在地名]高富町赤尾

岸見きしみ(二六六メートル)の東麓、鳥羽とば川右岸に位置する。耕地は川沿いに、集落は山麓に点在する。鳥羽川を挟んで東は伊佐美いさみ村。字おきおよびほらに二基ずつ円墳がある。慶長八年(一六〇三)の保々則貞宛領知朱印状(内閣文庫蔵)に赤尾村五二一石余とある。慶長郷帳、元和二年(一六一六)の村高領知改帳でも同高。旗本保々氏は美濃守護土岐頼忠の次男右馬頭之康の後裔で、則貞は江戸幕府に仕えて書院番、小普請を勤めた。正保郷帳には幕府領とあるので、保々氏はそれまでに転封になったと思われる。


赤尾村
あかおむら

[現在地名]桜井市大字赤尾

鳥見とみ山東麓の傾斜地集落。南北朝時代には南朝方の西阿が赤尾城を構えたが、暦応四年(一三四一)細川顕氏がこれを討っている(渡辺源四郎実軍忠状)。明応四年(一四九五)一〇月二二日の東大寺文書に「アカヲノ庄ノ内二月堂ノ御関ノ御代官職事」の記事がみえ、初瀬はせ街道から分れて女寄めより峠経由で宇陀へ至る道筋にあたる当村域に二月堂にがつどうの関が設けられたものと考えられ、地名に小字二月堂にんがつどうが残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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