日本歴史地名大系 「光明山寺跡」の解説
光明山寺跡
こうみようせんじあと
〔草創〕
嘉承元年(一一〇六)成立の「東大寺要録」(第六末寺章第九)に「光明山寺、在山城国、東大寺厳講之建立也」とある。嘉吉元年(一四四一)の「興福寺官務牒疏」は「光明山寺、在相楽郡相谷棚倉山、僧房二十八宇、末山二十八宇、交衆二十口、宇多天皇勅願、広沢寛朝僧正之開基、本尊薬師仏、然永承四年再建、弘寛僧都也」と記すが明確ではなく、平安前期に広沢寛朝によって開かれ、奈良東大寺の厳が再建したとみられている。東大寺の永観律師が光明山に蟄居した話は「拾遺往生伝」にもみえ、平安末期まで頼基・静誉・覚樹・重誉・実範・心覚・明遍など多くの僧の在山が知られる。たとえば「金葉集」巻九の橘能元の歌に「僧都頼基光明山にこもりぬと聞きてつかはしける」との詞書があり、能元の歌と頼基の返歌が載る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報