古墳時代を代表する墳墓形式。円丘の一側に長方形台状の施設を付加した特殊な形態で,英語ではkey hole shaped(鍵穴形)と訳される。古くより民間では,その形を身近な器物になぞらえ,車塚(くるまづか),銚子塚(ちようしづか),茶臼山(ちやうすやま),瓢簞山(ひようたんやま),瓢塚(ひさごづか),二子山(ふたごやま)などと呼びならわしてきた。江戸中期の国学者,蒲生君平も《山陵志》(1808)の中で宮車模倣説を唱え,円丘を車蓋に,方丘を轅(ながえ)に見たて,〈前方後円〉と形容したが,それがこの名称の起源となった。そこで便宜上,円丘部を〈後円部〉,方丘部を〈前方部〉,両者の接するところを〈くびれ部〉と呼ぶ。また,くびれ部付近の片側あるいは両側に設けられることのある方形台状の施設を〈造り出し〉という。墳丘は自然地形の削り出しと盛土とで作られ,斜面に葺石が施される場合が多いが,塊石や河原石を積んで築かれる積石塚(つみいしづか)も存在する。大型の例は2段,3段に築かれるのが普通で,前後の墳頂部は平たんに作られ,一部のものには方形壇が設けられている。墳形の起源については器物模倣説,円墳方墳接合説,丘尾切断説,前方部祭壇説など多くの仮説が提出されてきたが,近年の,前方後円墳に先立つ弥生時代の墳墓(〈墳丘墓〉等と呼ばれる)の調査研究の結果,前方部は埋葬場所たる円丘部に至る通路が突出部となり,やがては祭場の一部として形式化し,墳丘外と隔絶されたものとの考えが有力になっている。したがって,本来,後円部が埋葬の場で,前方部は祭壇にあたるわけだが,前方後円墳の出現後,まもなく,前方部にも埋葬が行われるようになる。
前方後円墳の分布は畿内を中心とし,沖縄,北海道,東北の一部を除く日本列島のほぼ全域に及ぶ。複数の前方後円墳を中心に円墳,方墳等を加え,階層性を示す大型の古墳群を形成するものから単独のものまで,多様な群構成を示す。大陸からの刺激を受けつつも,列島社会で独自に生み出された墳墓形式と考えられ,3世紀末,ないしは4世紀初頭に出現し,ほぼ6世紀末まで築造された。その間,最高位の墳丘形式として,大王はじめ,各地域の首長,あるいはそれに準ずる階層の人々によって盛んに用いられた。時期的な変質があるにせよ,前方後円墳の築造とその祭式は,当時の社会におけるもっとも重要な政治的・社会的,あるいは宗教的意義を有していたものと推定され,前方後円墳の出現と消滅でもって古墳時代の前後を画そうとする考えも強い。
前方後円墳の形態は,時期によってその特徴が変化し,古墳の編年的研究に重要な役割を果たした。前期は丘陵上や台地の縁辺部に立地するものが多く,高い後円部の前面に低くて細い前方部が付くのが特徴で,一部は〈柄鏡式古墳〉と呼ばれる。ただし最古の一群には,前方部が狭いくびれ部から撥(ばち)形に大きく開く例の多いことが指摘されている。墳丘には葺石が備わり,特殊な器台形埴輪,円筒埴輪,朝顔形埴輪,家・器財・水鳥などの形象埴輪が順次整えられた(埴輪)。中期には低位段丘面などの平地に営まれることが多く,古墳の形式化,巨大化は頂点に達した。前方部が後方部と同じほどの高さと幅にまで発達し,しばしば造り出しが付設される墳丘には,葺石が施され,多様で多量の埴輪が樹立された。完備した周濠は,ときに二重,三重に巡らされ,周庭帯,あるいは外堤が整備された。しかし,後期に入ると前方後円墳は全般的に小型化するとともに,後円部が縮小し,前方部は幅においても高さにおいても後円部を凌駕するようになる。その理由の一端としては,埋葬施設として横穴式石室が採用されたことが指摘され,玄室を後円部の中央に築き,羨道入口を後円部側面に設けなければならない横穴式石室の構造上の特質が,後円部の規模を規定したと説明されている。ただし,以上の変遷観は畿内の大型例を基礎としたものであり,地域によるずれや地方色も少なからず認められる。いずれにしても,多くの前方後円墳は高い水準の土木技術によって,強い企画性をもって築かれており,中期の例を中心に,墳形の企画・設計法,基準単位(尺や尋(ひろ))等に関する研究がめざましい。
なお,前方後円墳との関係で理解すべきものに帆立貝式古墳,双方中円墳,あるいは前方後方墳などがあるが,性格の差違は十分明らかでない。また,最近では朝鮮南部で前方後円墳の発見が伝えられ,話題となっているが,実体の解明は今後の課題である。
→古墳文化 →墳墓
執筆者:和田 晴吾
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古墳時代の墳墓の一形式で、円形の墳丘に方形の墳丘を付設した古墳。江戸時代、蒲生君平(がもうくんぺい)が『山陵志(さんりょうし)』のなかでこの種の古墳を「前方後円」と形容したのが始まりで、円丘部におもな埋葬施設があり、方丘部は祭式を行うための付属施設とみて、明治時代後半以後、学術用語として定着した。しかし前期の前方後円墳は、高い後円部の前面に前方部が低く延びる形態をもつが、中期から後期になるにしたがってしだいに前方部が巨大化し、どちらが主丘かわからないほどになっている。
[久保哲三]
円形の主丘に方形の墳丘を付した形の古墳。江戸時代に蒲生君平(がもうくんぺい)によって命名された。古墳時代を特徴づける日本独特の墳形で,近年朝鮮半島南西部でも発見されつつある。出現時期・起源について諸説ある。畿内を中心にほぼ全国的に分布。前期には前方部は後円部に比して細長く低いが,しだいに幅広く高くなり,後期には後円部を凌駕する。基本的に後円部で埋葬が行われ,前方部は副次的な役割をはたしていたと思われるが,具体的なことは不明。各種の形態の古墳のなかでは最高位に位置づけられる墳形であり,当時の氏姓制度などと結びつける考えもある。設計図にもとづいて造られたと考えられ,その築造企画や基準尺についても諸説がある。
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(天野幸弘 朝日新聞記者 / 今井邦彦 朝日新聞記者 / 2007年)
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… 日本の古墳の墳丘は,工法からいえば,土を盛って作った土塚と,石を積みあげた積石塚とがある。形態からいえば,規模の小さい円墳,方墳と,大型のものをふくむ前方後円墳,前方後方墳とがあり,特定の時期にあらわれたものとして,前期の双方中円墳,中期の帆立貝式古墳,後期の双円墳および上円下方墳などがある。また,外形の種類と関係なく,古墳には周濠のないものと,周濠をめぐらすものとがある。…
…九志のうち,この《山陵志》と《職官志》のみが完成した。歴代山陵を実地踏査してその変遷を論じ,前方後円墳の語を初めて用いた。大和,河内,和泉,摂津,山城等に所在する92天皇陵(泉涌寺所在の山陵を除く)について,その場所を考証している。…
…墳丘の平面形も変化に富み,円形,方形,長方形,台形その他がある。円形と台形ないし長方形とを組み合わせた前方後円墳の墳形は,日本の古墳に特徴的な存在であるが,オランダの青銅器時代の火葬墓には,小規模ながら同じ形の墳丘をもつものがある。エジプトのピラミッドは,墳丘として特例である。…
※「前方後円墳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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