景行天皇(読み)けいこうてんのう

精選版 日本国語大辞典 「景行天皇」の意味・読み・例文・類語

けいこう‐てんのう ケイカウテンワウ【景行天皇】

第一二代天皇垂仁天皇の第三皇子。名は大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけのみこと)日本書紀によれば、垂仁天皇九九年即位し、大和纏向日代宮(まきむくひしろのみや)遷都、在位六〇年の間に九州へ下って熊襲を征伐、さらに日本武尊を熊襲、蝦夷平定に派遣したとされる。

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デジタル大辞泉 「景行天皇」の意味・読み・例文・類語

けいこう‐てんのう〔ケイカウテンワウ〕【景行天皇】

記紀で、第12代天皇。垂仁天皇の第3皇子。名は大足彦忍代別おおたらしひこおしろわけ皇居は大和纏向日代宮まきむくのひしろのみや熊襲くまそを征討、また、皇子小碓尊おうすのみこと日本武尊やまとたけるのみこと)を派遣して熊襲・蝦夷えぞを平定させたと伝えられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「景行天皇」の意味・わかりやすい解説

景行天皇
けいこうてんのう

皇室系譜に第12代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)。垂仁(すいにん)天皇の第3子で、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)である。景行天皇元年に即位して播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)(『古事記』は父を吉備臣(きびのおみ)らの祖若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)とする)を皇后とし、日本武尊(やまとたけるのみこと)をもうけたが、同52年に皇后が没したため、妃の一人で皇太子稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)(成務(せいむ)天皇)の生母八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)の女(むすめ)八坂入媛(やさかいりひめ)を皇后にたてた。この間、同4年に纏向(まきむく)(奈良県桜井市穴師(あなし))の日代宮(ひしろのみや)に都を営み、同12年より19年まで九州に遠征して熊襲(くまそ)を平定し、日本武尊に命じて同27年にふたたび熊襲を、同40年に東方の蝦夷(えみし)を討伐させた。さらに同56年には彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)の子御諸別(みもろわけ)王を用いて東国経略に成功した。そして同58年、近江(おうみ)国の志賀(しが)(滋賀県滋賀郡・大津市)の高穴穂宮(たかあなほのみや)に移り、在位60年、106歳(一説に143歳、『古事記』では137歳)で没し、山辺道上陵(やまのべのみちのかみのみさざき)に葬られたという。また皇子女多く、『古事記』は77子を諸国に封じたと伝えるが、これは熊襲・蝦夷征討の伝承とともに、大和(やまと)王権成立期の国内征服の記憶が伝説化されたものとみなされる。

[星野良作]

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改訂新版 世界大百科事典 「景行天皇」の意味・わかりやすい解説

景行天皇 (けいこうてんのう)

記紀の天皇記に第12代の天皇として伝えられる。諡号(しごう)は〈大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)〉という。《日本書紀》は在位60年とし,その間の事跡に九州へ親征して熊襲(くまそ)ほかの地方勢力を征し,また,日本武(やまとたける)尊をはじめ諸皇子を東西に派遣して辺境を平定したことがかなり子細にのべられている。《古事記》では以上の平定譚がもっぱら景行の皇子,日本武尊個人の事業とされ,天皇はこの皇子の勇猛さを恐れ疎外する存在としてあらわれる。記紀ともに征討による王権の版図拡大という枠組みにしたがっているが,《古事記》は《日本書紀》にはない王権を代表する父天皇と英雄的個性としての皇子との対立を主題化しており,日本武尊を主人公とする一編の悲劇的物語を構成している。なお景行の〈大足彦〉に対し,13代成務天皇は〈稚足彦(わかたらしひこ)〉,14代仲哀天皇は〈足仲彦(たらしなかつひこ)〉を名乗る。〈たらし〉は充足するという意味の嘉名で,この3代の天皇はそれぞれ分身的関係にあり,あるいは1人の〈足彦〉を系譜的,説話的に分割・延長したものともみなされる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「景行天皇」の解説

景行天皇
けいこうてんのう

記紀系譜上の第12代天皇。大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)天皇と称する。垂仁(すいにん)天皇の皇子。母は日葉酢媛(ひばすひめ)命。播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后とし,大碓(おおうす)命・日本武(やまとたける)尊らをもうけた。また妃の八坂入姫(やさかいりひめ)との間に成務天皇ら多数の子をもうけ,諸国を治めさせたと伝える。「古事記」には倭建命(日本武尊)を派遣して九州の熊襲(くまそ)や東北の蝦夷(えみし)らを平定させたと伝えるが,「日本書紀」では命の遠征のほか,天皇みずからの九州・東国への行幸を記す。纏向日代(まきむくのひしろ)宮(現,奈良県桜井市穴師付近)を営み,山辺道上(やまのべのみちのへ)陵(奈良県天理市渋谷町の向山古墳に指定)に葬られたと伝える。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「景行天皇」の解説

景行天皇 けいこうてんのう

記・紀系譜による第12代天皇。
父は垂仁(すいにん)天皇。母は日葉洲(酢)媛命(ひばすひめのみこと)。「日本書紀」によると,都は纏向(まきむく)の日代(ひしろの)宮。子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に九州の熊襲(くまそ),東国の蝦夷(えみし)を平定させ,諸国に田部(たべ)と屯倉(みやけ)をもうけたとつたえる。景行天皇60年11月7日死去。106歳。墓所は山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)(奈良県天理市)。別名は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)。
【格言など】倭(やまと)は国のまほらま畳(たたな)づく青垣山籠(やまこも)れる倭し麗し(「日本書紀」景行天皇17年)

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朝日日本歴史人物事典 「景行天皇」の解説

景行天皇

『古事記』『日本書紀』に第12代と伝えられる天皇。大足 彦忍代別天皇ともいう。記紀によれば,垂仁天皇と丹波道主王の娘日葉酢媛の子。皇后は播磨稲日大郎姫,その死後は八坂入姫。子に成務天皇,日本武尊がいる。都は纏向日代宮(桜井市穴師付近)。自ら日向(九州南部)の熊襲を討ち,日本武尊をして熊襲,出雲,東国を征討させたという。子は80人におよび,その多くは地方に分封したと伝える。また九州関係の『風土記』には多様な巡行,活動が描かれる。伝承上の事績は事実としては疑わしいが,地方伝承への強い浸透を念頭におくと,人物としては実在の可能性もある。

(関和彦)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「景行天皇」の意味・わかりやすい解説

景行天皇
けいこうてんのう

第 12代に数えられる天皇。名はオオタラシヒコオシロワケノミコト。垂仁天皇の第3皇子。母は皇后ヒハスヒメノミコト。大和の纏向日代宮に都した。大和国家の勃興期にあたり,その全国統一事業は『古事記』『日本書紀』において,大部分が 10代に数えられる崇神朝からこの景行朝にかけて語られている。すなわち,みずから熊襲征討に日向国に出かけ,あるいは皇子オウスノミコト (日本武尊) をつかわしてこれを討たせ,また北陸,東国の蝦夷をも討たせたという伝承は著名である。晩年近江志賀高穴穂宮に移った。陵墓は奈良県天理市の山辺道上陵。

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防府市歴史用語集 「景行天皇」の解説

景行天皇

 『日本書紀[にほんしょき]』に書かれている12代天皇で、紀元後51年に天皇になり、以後60年間即位していたと言われています。有名な日本武尊[やまとたけるのみこと]のお父さんです。熊襲[くまそ]を攻める際に玉祖神社の近くを訪れたと言われています。

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旺文社日本史事典 三訂版 「景行天皇」の解説

景行天皇
けいこうてんのう

生没年不詳
記紀にみえる,皇室系図で12代目の天皇
みずから熊襲 (くまそ) 征討に出かけ,また皇子日本武尊 (やまとたけるのみこと) にも蝦夷 (えみし) や熊襲 (くまそ) を討たせたという征討説話がある。

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世界大百科事典(旧版)内の景行天皇の言及

【日本武尊】より

…記では倭建命と記す。景行天皇の第3皇子,母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とされ,幼名に小碓(おうす)命,倭男具那(やまとおぐな)王がある。年少にして勇武人にすぐれ,諸方の平定に派遣されて日本武尊の名を得るが,長途の征旅,漂泊の末に力尽きて倒れる悲劇的人物として描き出されている。…

※「景行天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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