鎌倉幕府6代将軍。後嵯峨天皇第1皇子。後深草天皇,亀山天皇の兄。母は平棟子。1244年(寛元2)親王となり,52年(建長4)元服,三品となる。同年幕府は将軍藤原頼嗣を廃し,宗尊親王が鎌倉に迎えられて征夷大将軍となった。親王将軍の始めである。60年(文応1)前執権北条時頼は故摂政近衛兼経の娘宰子を猶子とし,親王の御息所(みやすどころ)とした。64年(文永1)に王子惟康が生まれ,65年宗尊親王は一品中務卿となった。親王は執権時頼,長時,政村の3代にわたり将軍職にあったが,66年病気のため護身験者として都から招いた良基と御息所宰子との間に醜聞が生ずると,幕府はこれを利用し,親王に謀反の企てありとして都に送還した。はじめ後嵯峨上皇は親王に謁見を許さなかったが,やがて幕府のとりなしで親王は上皇に対面した。72年出家,法名行証または覚恵。和歌に通じ,《初心愚草》《柳葉和歌集》《瓊玉和歌集》などの歌集がある。
執筆者:上横手 雅敬
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鎌倉幕府第6代将軍。仁治(にんじ)3年11月22日、後嵯峨(ごさが)天皇の第1皇子として生まれる。母は平棟子。1244年(寛元2)親王にたち、52年(建長4)元服、関東に下向し藤原頼嗣(よりつぐ)にかわって征夷(せいい)大将軍となった。藤原光俊(みつとし)(真観)を師として和歌をたしなみ、関東歌壇確立の中心となったが、66年(文永3)幕府転覆の嫌疑により京に送還された。72年出家し(法名行証)、文永(ぶんえい)11年7月30日没した。家集に『瓊玉(けいぎょく)和歌集』などがある。
[近藤成一]
1242.11.22~74.8.1
鎌倉幕府6代将軍(在職1252.4.1~66.7.4)。父は後嵯峨天皇,母は平棟子(とうし)。中務卿になったため中書王(ちゅうしょおう)ともよばれた。1252年(建長4)鎌倉へ下り,皇族としてはじめて将軍となる。66年(文永3)幕府への謀反の疑いありとして,京都へ追放された。72年出家,法名は行証(ぎょうしょう)。歌人として知られ,家集「瓊玉(けいぎょく)和歌集」「中書王御詠」。
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…この評定と奏事を柱とする執政方式は,27年間にわたる上皇の院政のもとで定着し,多少の手を加えながらも,基本的には以後の公家政権に引き継がれた。また幕府の要請をいれて皇子宗尊親王を将軍として鎌倉にくだし,朝幕の提携を強化した。宮将軍の初めである。…
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