宗尊親王(読み)ムネタカシンノウ

デジタル大辞泉 「宗尊親王」の意味・読み・例文・類語

むねたか‐しんのう〔‐シンワウ〕【宗尊親王】

[1242~1274]鎌倉幕府第6代将軍在職1252~1266。後嵯峨天皇の皇子。謀反の疑いで京に送還され、のち出家歌集「柳葉和歌集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「宗尊親王」の意味・読み・例文・類語

むねたか‐しんのう‥シンワウ【宗尊親王】

  1. 鎌倉中期の歌人。鎌倉幕府六代将軍。後嵯峨天皇の皇子。母は平棟子。建長四年(一二五二)鎌倉に下向して将軍となる。文永三年(一二六六北条氏に対する謀反の疑いで将軍職を追われ帰京。法名行証覚恵。「万葉集」の言葉などを用いて多くの作品を残した。歌集に、「瓊玉和歌集」「柳葉和歌集」「中書王御詠」「竹風和歌抄」など。仁治三~文永一一年(一二四二‐七四

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改訂新版 世界大百科事典 「宗尊親王」の意味・わかりやすい解説

宗尊親王 (むねたかしんのう)
生没年:1242-74(仁治3-文永11)

鎌倉幕府6代将軍。後嵯峨天皇第1皇子。後深草天皇,亀山天皇の兄。母は平棟子。1244年(寛元2)親王となり,52年(建長4)元服,三品となる。同年幕府は将軍藤原頼嗣を廃し,宗尊親王が鎌倉に迎えられて征夷大将軍となった。親王将軍の始めである。60年(文応1)前執権北条時頼は故摂政近衛兼経の娘宰子を猶子とし,親王の御息所(みやすどころ)とした。64年(文永1)に王子惟康が生まれ,65年宗尊親王は一品中務卿となった。親王は執権時頼,長時,政村の3代にわたり将軍職にあったが,66年病気のため護身験者として都から招いた良基と御息所宰子との間に醜聞が生ずると,幕府はこれを利用し,親王に謀反の企てありとして都に送還した。はじめ後嵯峨上皇は親王に謁見を許さなかったが,やがて幕府のとりなしで親王は上皇に対面した。72年出家,法名行証または覚恵。和歌に通じ,《初心愚草》《柳葉和歌集》《瓊玉和歌集》などの歌集がある。
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百科事典マイペディア 「宗尊親王」の意味・わかりやすい解説

宗尊親王【むねたかしんのう】

鎌倉幕府6代将軍後嵯峨天皇皇子。1252年将軍藤原頼嗣が廃せられ,初めての親王将軍として鎌倉に下向。1266年幕府への謀反の疑いで将軍職を追われ帰京。その後出家。家集に《瓊玉(けいぎょく)和歌集》などがある。
→関連項目引間

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宗尊親王」の意味・わかりやすい解説

宗尊親王
むねたかしんのう

[生]仁治3(1242).11.22. 京都
[没]文永11(1274).7.29. 京都
鎌倉幕府6代将軍 (在職 1252~66) ,歌人。後嵯峨天皇の第1皇子。母は平棟基 (一説に棟範) の女,四条院兵衛の内侍 (ないし) 。建長4 (52) 年藤原頼嗣に代って,最初の宮将軍として鎌倉に下向,文永2 (65) 年一品中務卿。同3年7月4日北条氏に対して謀反を企てた嫌疑により廃せられるまで,征夷大将軍の地位にあった。将軍を廃せられて帰京後出家し,不遇のうちに没した。和歌は藤原為家,基家,光俊 (弁入道真観) らに師事し,鎌倉幕府でしばしば歌会,歌合 (うたあわせ) を主催した。『柳葉和歌集』『瓊玉 (けいぎょく) 和歌集』 (真観撰) など,数種の家集が存する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗尊親王」の意味・わかりやすい解説

宗尊親王
むねたかしんのう
(1242―1274)

鎌倉幕府第6代将軍。仁治(にんじ)3年11月22日、後嵯峨(ごさが)天皇の第1皇子として生まれる。母は平棟子。1244年(寛元2)親王にたち、52年(建長4)元服、関東に下向し藤原頼嗣(よりつぐ)にかわって征夷(せいい)大将軍となった。藤原光俊(みつとし)(真観)を師として和歌をたしなみ、関東歌壇確立の中心となったが、66年(文永3)幕府転覆の嫌疑により京に送還された。72年出家し(法名行証)、文永(ぶんえい)11年7月30日没した。家集に『瓊玉(けいぎょく)和歌集』などがある。

[近藤成一]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宗尊親王」の解説

宗尊親王 むねたかしんのう

1242-1274 鎌倉幕府6代将軍。在職1252-66。
仁治(にんじ)3年11月22日生まれ。後嵯峨(ごさが)天皇の皇子。母は平棟子。初の皇族将軍。中書王とよばれた。文永3年謀反の疑いで京都に追放され,9年出家。鎌倉歌壇の中心的存在で,生涯に三千余首を作歌,勅撰集には「続古今和歌集」以下に190首はいっている。文永11年8月1日死去。33歳。家集に「瓊玉(けいぎょく)和歌集」など。
【格言など】今朝みれば山も霞みて久方の天の原より春は来にけり(「金槐和歌集」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宗尊親王」の解説

宗尊親王
むねたかしんのう

1242.11.22~74.8.1

鎌倉幕府6代将軍(在職1252.4.1~66.7.4)。父は後嵯峨天皇,母は平棟子(とうし)。中務卿になったため中書王(ちゅうしょおう)ともよばれた。1252年(建長4)鎌倉へ下り,皇族としてはじめて将軍となる。66年(文永3)幕府への謀反の疑いありとして,京都へ追放された。72年出家,法名は行証(ぎょうしょう)。歌人として知られ,家集「瓊玉(けいぎょく)和歌集」「中書王御詠」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「宗尊親王」の解説

宗尊親王
むねたかしんのう

1242〜74
鎌倉幕府第6代将軍(在職1252〜66)
後嵯峨天皇の第2皇子。1252年,10歳で最初の皇族(親王)将軍として鎌倉に下向し,征夷大将軍となる。'66年謀反の疑いで京都に追われた。和歌にすぐれ,『柳葉和歌集』『初心愚草』などがある。

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367日誕生日大事典 「宗尊親王」の解説

宗尊親王 (むねたかしんのう)

生年月日:1242年11月22日
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第6代の将軍
1274年没

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世界大百科事典(旧版)内の宗尊親王の言及

【後嵯峨天皇】より

…この評定と奏事を柱とする執政方式は,27年間にわたる上皇の院政のもとで定着し,多少の手を加えながらも,基本的には以後の公家政権に引き継がれた。また幕府の要請をいれて皇子宗尊親王を将軍として鎌倉にくだし,朝幕の提携を強化した。宮将軍の初めである。…

※「宗尊親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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