日本歴史地名大系 「八尾町」の解説
八尾町
やつおまち
〔町立て以前〕
八尾の地名は永禄三年(一五六〇)の八幡神社所蔵の文書断簡に「右八尾村ニ而家瀬戸」とみえるのが早い。当町成立の契機となる聞名寺は天文二〇年(一五五一)以降にこの地に寺基を固め、北東のの保護を得て、永禄六年には「霧山下野」を寄進されている(三月二四日「風間家次等寄進状」聞名寺文書)。さらに元亀二年(一五七一)には守護代神保宗昌(長職)・長城により禁制(同文書)が出されて不入地となり、天正一三年(一五八五)閏八月には羽柴秀吉の禁制(同文書)が発せられている。近世に入ると史料上にも町名が現れ、慶長一〇年(一六〇五)一二月の前田利長請取状(有賀家文書)には「壱枚者 八尾町 れいてんくふきぬき」とみえ、同年分の天秤役として銀一枚を納めている。同一三年にも「八尾町分」として同額を納めているが、ここでは釐等具(秤)役と記されている(同年一二月「越中代官所蔵払算用書」同文書)。
町立て以前、当地には八尾村・
八尾町
やつおまち
- 富山県:婦負郡
- 八尾町
婦負郡の中央部から南部を占め、北は
町域の遺跡は旧石器時代から中世まで各時代にわたるが、それらは井田川両岸および井田川と神通川との間の丘陵上を中心に分布する。旧石器時代では
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報