八尾町
やつおまち
[現在地名]八尾町東町・西町・鏡町・上新町・諏訪町・西新町・東新町・今町・下新町・天満町
近世の在郷町で、富山藩領内の有力な町方として西岩瀬・四方(現富山市)とともに藩下三宿として重きをなした。当初は今町の浄土真宗本願寺派寺院聞名寺の寺内または門前町として成立し、市場町として発展、一二ヵ町の成立をみるが、とくに蚕種・紙漉などの産業では本場の一つとされ、その経済力が曳山神事やおわら風の盆といった文化を継続してきた。八尾の地名は字義どおりみれば多くの山嶺の尾根末が集まる所の意であり、人と物資を運ぶ河川とそれに沿う道筋が当町に結節したという歴史をよく示すものといえよう。
〔町立て以前〕
八尾の地名は永禄三年(一五六〇)の八幡神社所蔵の文書断簡に「右八尾村ニ而家瀬戸」とみえるのが早い。当町成立の契機となる聞名寺は天文二〇年(一五五一)以降にこの地に寺基を固め、北東の城尾城主斎藤一
の保護を得て、永禄六年には「霧山下野」を寄進されている(三月二四日「風間家次等寄進状」聞名寺文書)。さらに元亀二年(一五七一)には守護代神保宗昌(長職)・長城により禁制(同文書)が出されて不入地となり、天正一三年(一五八五)閏八月には羽柴秀吉の禁制(同文書)が発せられている。近世に入ると史料上にも町名が現れ、慶長一〇年(一六〇五)一二月の前田利長請取状(有賀家文書)には「壱枚者 八尾町 れいてんくふきぬき」とみえ、同年分の天秤役として銀一枚を納めている。同一三年にも「八尾町分」として同額を納めているが、ここでは釐等具(秤)役と記されている(同年一二月「越中代官所蔵払算用書」同文書)。
町立て以前、当地には八尾村・桐山村があり、桐山は下野村(のちの東町・西町・今町の一帯)・作小家村(同諏訪町)・野村(同東新町・西新町・上新町)からなり、うち下野村は前掲の霧山下野にあたる。一説に作小家村は八尾村の枝村であったという。八尾村は上村・下村・東村・西村の四村で構成され、文禄四年(一五九五)の竿入で二九四歩を打出し、慶長一三年には高二三石余と改め、定免は四ツ七歩四厘であった(八尾創立旧記)。なお町立て以降も村として記されることがあり、正保郷帳には八尾村として高一八石余、田方七町二反余・畑方五反。承応四年(一六五五)の年貢割付状(葛城家文書)では草高二九八石余(桐山村を含む)はすべて蔵入分で、うち二三石余が免五ツ七歩四厘、同二六八石余が免七ツなどとされ、小物成銀は三一匁余。
八尾町
やつおまち
面積:二三六・八六平方キロ
婦負郡の中央部から南部を占め、北は婦中町、西は山田村、南西は東礪波郡利賀村、南南西は岐阜県吉城郡河合村、南は同県吉城郡宮川村、南東は細入村、東は上新川郡大沢野町、北東は富山市に接する。町南部の飛越山地帯は室牧・久婦須・野積の三河川によって黒瀬谷・卯花・野積谷・室牧谷・仁歩谷・大長谷の六地区に分けられ、後者四つは野積四谷と総称される。三河川は北流して町の中心部で合流し、神通川の支流井田川となる。北部新田地帯は井田川によって東の杉原と西の保内に分けられる。東は神通川が境をなしている。国境の白木峰は白木水無県立自然公園に指定されるが、北の尾根筋の仁王山、南方の万波白木峰、また大長谷川の谷を隔ててそびえる金剛堂山(西白木峰)などを含めた総称でもある。仁王山と同じ尾根に日尾御前があり、その岩壁に行基の刻んだ三体の大仏と聖徳太子像があると伝承されてきたが、これは磨崖仏ではなく自然の露岩が仏の姿に似て見えるのであろう。さらに北方には祖父岳があり、きわめて急峻な形状から瓶山とも称された。その南東にある戸田峰は古く魚峰・トドガミネと記されていた。
町域の遺跡は旧石器時代から中世まで各時代にわたるが、それらは井田川両岸および井田川と神通川との間の丘陵上を中心に分布する。旧石器時代では水上谷I遺跡や長山遺跡があり、長山遺跡からは縄文時代前期末葉から中期にかけての遺物も出土しており、土器とともに大量の土偶がみられ注目される。中期の遺跡数は多く、井田川支流の久婦須川上流の掛畑でも遺跡が確認されている。後期・晩期の遺跡数は少なく、高熊遺跡や小長谷遺跡のように、河川沿いの低地に立地するようになる。弥生時代から古墳時代にかけての遺跡は離尾I遺跡のほか一、二が知られるだけで、極端に少なくなる。中世になると、主馬ヶ城や城尾城、井田館跡などの城館跡をはじめ、高善寺地内では数千枚の宋銭を納めた珠洲焼の壺が出土するなど遺跡の数が増え、分布範囲も広がる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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