八王子横山十五宿(読み)はちおうじよこやまじゆうごしゆく

日本歴史地名大系 「八王子横山十五宿」の解説

八王子横山十五宿
はちおうじよこやまじゆうごしゆく

甲州道中の宿駅業務を勤めるしん町・横山宿ほん宿・八日市ようかいち宿・てら町・八幡はちまん宿・八木やぎ宿・よこ町・本郷ほんごう宿・久保くぼ宿・島之坊しまのぼう宿・小門おかど宿・上野原うえのはら宿・馬乗うまのり宿・子安こやす宿など一五ヵ宿の総称。西に千人せんにん町が続く。

〔近世〕

天正一八年(一五九〇)十五宿の建設は落城した八王子城の城下町を甲州路と鎌倉街道の交差する交通の要衝横山に移転(宿越)することから始まった。翌一九年三月までに横山・八日市・八幡の三宿が置かれ、のち甲州道中の宿駅に指定され、町並も漸次拡大して十五宿が成立した。うち横山・八日市両宿は本宿として伝馬役を隔月で勤めたが、他の一三宿はそれら本宿の伝馬役を助ける加宿に位置づけられている。成立当初の横山十五宿は治安状況が悪かったこともあり、代官頭大久保石見守長安のもと関東諸地域の支配を担当する代官の陣屋が宿内に設けられ、地方行政の拠点となっていた(風土記稿)。田園簿に横山町とみえ、高五〇〇石(皆畑)、ほか信松しんしよう院領一一石。この横山町はもと横山村域(一部は子安村域)に町割されたことに由来するものであろう。貞享年間(一六八四―八八)には十五宿を総称して八王子町とよばれていたが(「八王子町廻り村々商覚」八王子市史)、のち定着するのは八王子横山十五宿であった(「風土記稿」など)。ただし、八王子町・横山宿をはじめ八王子宿(延享三年「片倉村明細帳」川幡家文書)・八王子横山拾五組(分間延絵図)・八王子拾五ヶ宿(文久二年「組合村書上帳」水越家文書)など多様な呼称が混用されていた。また郷帳類に高付されており、幕府領の村方であった。元禄郷帳には八王子共横山町とあり、高八九八石余。

宿町の規模は東西一九町・南北七町(寛保三年「横山村内十三組村明細帳」石川家文書)。元禄一五年(一七〇二)の八王子横山宿村鑑(新野家文書)によれば、高八五五石余、家数七三四のうち本百姓三二四・水呑二七九・千人同心九九・禰宜山伏三一・行人一、人数三千四四八。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報