八田達也(読み)ハッタ タツヤ

20世紀日本人名事典 「八田達也」の解説

八田 達也
ハッタ タツヤ

明治・大正期の蚕糸改良家,政治家 山梨県蚕糸協会会長;山梨県議。



生年
嘉永7年8月12日(1854年)

没年
大正5(1916)年6月4日

出生地
甲斐国山梨郡歌田村(山梨県山梨市)

旧姓(旧名)
志村

経歴
山梨県東八代郡の八田家の養子。明治16年養蚕業の盛んな山梨県内に、福島県で行われていた温暖育による蚕の飼育法を導入。同年山梨県養蚕協会の創設に参画し、21年山梨県蚕糸業取締所頭取、22年山梨蚕糸協会会長を歴任して県下の養蚕業振興のために奔走した。32年には合資会社八達館を設立し、秋蚕種の製造や富士山麓風穴を用いた貯蔵法を考案するなど養蚕技術の発達と普及に尽力。その一方で明治15年から22年まで山梨県会議員を務めるなど地方政界でも活躍し、32年東八代郡長を経て33年に北都留郡長となった。著書に「蚕事輯説」「新撰養蚕書」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「八田達也」の解説

八田達也

没年:大正5.6.4(1916)
生年:安政1.8.12(1854.10.3)
明治期の蚕糸改良家。甲斐国山梨郡歌田村(山梨市)の志村家に生まれ,八代郡鵜飼村(石和町)の豪農八田家の養子となる。蚕糸生産の盛んな山梨県で,明治17(1884)年に福島県の温暖育法を導入し,その普及や生糸改良法の研究に努めた。『蚕事輯説』『新撰養蚕書』などの著書にみえる技術的指導のほか,山梨県蚕糸業取締所頭取,同蚕糸協会会長として業界をリードした。蚕種貯蔵に富士北麓の風穴を利用したことで知られる。県会議員と郡長を務めて,多方面にわたって活動したが,その生活は公益のためには「家産ヲ蕩尽スルモ敢テ顧念セズ」恬淡たるものだったという。

(飯田文弥)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「八田達也」の解説

八田達也 はった-たつや

1854-1916 明治時代の養蚕改良家。
嘉永(かえい)7年8月12日生まれ。山梨県下の養蚕改良につとめ,福島県の温暖育法を導入。明治22年山梨蚕糸協会の会長となり,蚕糸業組合育成につくす。県会議員,東八代郡長,北都留郡長などをつとめた。著作に「蚕事輯説」「新撰養蚕書」など。大正5年6月4日死去。63歳。甲斐(かい)(山梨県)出身本姓は志村。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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