具志頭間切(読み)ぐしちやんまぎり

日本歴史地名大系 「具志頭間切」の解説

具志頭間切
ぐしちやんまぎり

沖縄島最南部に位置し、北西摩文仁まぶい間切・真壁まかび間切・東風平くちんだ間切、北は大里うーざとう間切に接し、東は雄樋ゆーひ川を挟んで玉城たまぐすく間切。里積記によると首里城から具志頭ぐしちやん村の番所まで三里三合三勺五才(三里一二町余)。島尻方一五間切の一。間切内の地名は「おもろさうし」巻一四・巻一九に「くしかみ」「はなくすく」がみえるのが早い。これらと並んで「よりたち」(巻一四)、「せるまし」「たまとり」(巻一九)もみえるが、これら三つについては村名説と地名ではないという説があり、また近世諸文書にはみえない。間切内には二〇〇〇平方メートル以上の大型の具志頭ぐしちやんグスク多々名ただなグスクをはじめ、いーグスク・ミドリグスク・新城あらぐすくグスク・やまグスクがある。グスク間の距離が一キロにも満たないところもあり、狭い範囲にグスクが密集しているところに特徴がある。

「中山伝信録」巻四によると古琉球期の具志頭間切は山南王の支配下にあった。「球陽」尚真王三五年(一五一一)条と阿姓前川家家譜によると、山南王他魯毎の弟南風原按司守忠と具志頭間切の安里大親の娘との間に生れた阿擢辛(花城親方守知)が第二尚氏第三代王尚真の養父となり、さらにのちには具志頭間切花城ふあなぐふいく地頭職を授かって花城親方を名乗る。また阿擢辛の娘は尚真の后になった。阿擢辛は晩年故郷の具志頭間切に葬られることを望み、阿擢辛が没すると尚真王は養父の願いをかなえるため、暴雨のため壊された識名しちな(現那覇市)を一夜二昼で修復させ、阿擢辛の遺体を具志頭間切に運んだという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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