日本歴史地名大系 「内堀村」の解説 内堀村うつぼりむら 広島県:比婆郡東城町内堀村[現在地名]東城町内堀所尾(ところお)村の北西に位置し、北東は備中国下神代(しもこうじろ)村(現岡山県阿哲郡神郷町)。村内の大小屋(おおごや)・小足(こあし)谷の水を集めた大小屋川(小足谷川)は村のやや西寄りを南流し、東寄りを南流する藪谷(やぶたに)川と所尾村境の落合(おちあい)淵で合流し、内堀川となる。所尾村と当村南の塩原(しおはら)村との境に飛郷畦高(あぜだか)・実繰(さねくり)がある。元来、砂鉄採取のための鉄穴流しにより開かれた村と考えられ、随所に鉄穴流しで生じた人工的な残丘が見られる。「比婆郡誌」は、弘仁一〇年(八一九)額部足熙なる者が当地の山野を開拓したことにより「打堀」と称したとするが、確証はない。 内堀村うつぼりむら 三重県:四日市市南部地区内堀村[現在地名]四日市市内堀(うちぼり)町内部(うつべ)川の南岸に位置し、川を隔てて北に川尻(かわじり)村がある。江戸時代初めは現集落より東方の古屋敷(ふるやしき)と俗称されるところに集落があったが、万治二年(一六五九)の内部川・鈴鹿川の大洪水により流失、現在地へ移転したと伝えられる。江戸時代は、初め幕府領、宝永七年(一七一〇)以降長島藩領、正徳五年(一七一五)再び幕府領、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領、享和元年(一八〇一)以降三度幕府領(信楽代官所支配)と変遷。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報