比婆郡(読み)ひばぐん

日本歴史地名大系 「比婆郡」の解説

比婆郡
ひばぐん

面積:九三一・六三平方キロ
東城とうじよう町・西城さいじよう町・比和ひわ町・高野たかの町・口和くちわ

県北東端に位置し、東は岡山県阿哲あてつ郡、南は神石じんせき郡および庄原市、西は双三ふたみ郡、北は島根県飯石いいし郡・同仁多にた郡、鳥取県日野ひの郡および岡山県阿哲郡と接する。郡東部は旧奴可ぬか郡で東城町西城町があり、西部は旧恵蘇えそ郡北部に相当し比和町高野町口和町がある。郡北西端の大万木おおよろぎ(一二一八メートル)から東に向かって、猿政さるまさ(一二六七・七メートル)吾妻あづま(一二三八・八メートル)烏帽子えぼし(一二二五・一メートル)を含む比婆山連峰、三国みくに(一〇〇四・一メートル)などの中国山地の一部をなす山々がそびえ、北東端の道後どうご(一二六八・九メートル)に至るまで一〇〇〇メートル級の高山が峰を連ねる。これらの山々に発する神之瀬かんのせ川・はぎ川・湯木ゆき川・比和川・西城川・東城川などの河川の流域に耕地や集落が分布する。前記河川の上流域はいずれも砂鉄の産地として知られ、明治初期まで、鉄山業によって繁栄した地方である。

明治三一年(一八九八)奴可・恵蘇・三上みかみの三郡を併せ、比婆郡が成立、郡名は「古事記」神代巻に伊邪那美神の埋葬地としてみえる「比婆の山」による。

〔原始・古代〕

東城町の帝釈たいしやく峡一帯には馬渡岩陰まわたりいわかげ遺跡(県指定史跡)寄倉岩陰よせくらいわかげ遺跡(国指定史跡)をはじめとし、多数の旧石器および縄文―弥生時代の遺跡が発見されている。これらの遺跡群は帝釈峡遺跡群の一部であるが、なかには古墳時代まで長期に及ぶものもあり、考古資料の編年に重要な役割を果すこととなった。古墳および古墳時代の遺跡は五〇〇以上知られているが、出雲地方に多い横穴古墳が西城町・東城町などに分布しており、出雲文化との関係の深さを示している。

和名抄」に記す郷は奴可郡には刑部おさかべ道部みちべ斗意とお・三上の四郷、恵蘇郡には恵蘇・春部かすかべ・刑部の三郷がある。うち恵蘇郷は郡名と同名なので、郡家の置かれた郷と考えられているが所在は明らかでなく、春部・刑部両郷も現地比定が困難であるが、その理由として、中世に恵蘇郡のほとんどがじび庄となり、旧郷名は失われたのではないかともいわれる。「延喜式」神名帳には奴可郡一座として「迩比都売ニヒツヒメノ神社」、恵蘇郡一座として「多加タカ意加美神社」が記される。

〔中世〕

古代末期には平氏勢力下にあった地方とみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報