東城町(読み)とうじようまち

日本歴史地名大系 「東城町」の解説

東城町
とうじようまち

[現在地名]東城町東城

東を除く三方を川西かわにし村に囲まれる。川西村の内に発展した市街部が分離して成立した町で、川西村とは別に町方支配が行われた。東部を東城川(有栖川)が南流する。東城川に沿って北から通じる備中新見路と、南から通じる備中故路が当町で合し、東城路も町を通る。このほか西城路が福永ふくなが(現神石郡神石町)から分岐して当町に通じ、古くから交通の要衝として発達、これらの街道沿いや合する地点に市街が密集。

〔町の成立〕

戦国末期、宮景友が川西に築いた五品嶽ごほんがだけ城の城下が市街化したのを初めとする。城下町として整備されたのは、近世初め福島正則の家老長尾一勝が当地に入ったときと考えられる。元和五年(一六一九)浅野氏の入国後は五品嶽城は廃城となったが、備中・備後の国境警備の必要上から、また藩内の重要拠点という軍事的意味から、当地には広島藩家老職を長とする家臣団を常駐させた。しかし一般政務は代官所を西城さいじよう町に置いて支配した。

当地に常駐した家臣団は、元和五年から同九年までは家老亀田大隅高綱を長としていたが、寛永一八年(一六四一)からは家老浅野孫左衛門高英が長となり、その後は代々その子孫が世襲した。このとき当地は川西村から分離し、五品嶽城の別名を東城といったことから東城の呼称が町名として使用されることになった。家臣団は一般に東城家中とよばれ、五品嶽の東麓に設けられた浅野孫左衛門屋敷前のやかた町に居住した。「郡務拾聚録(小田家文書)所収の享保二年(一七一七)広島藩御家中分限帖写によれば、東城浅野家は一万石を受け、うち二千石は与力分となっている。


東城町
とうじようちよう

面積:三〇五・二七平方キロ

北は鳥取県日野ひの日南にちなん町、北東は岡山県阿哲あてつ神郷しんごう町、東は同哲西てつせい町および同県川上かわかみ備中びつちゆう町に接し、広島県東北端に位置する。地形は急峻で、北部を東西に中国山地脊梁部が走り、標高五〇〇メートル以上の地域が町域の約七割近くを占め、北に高く南に低い。町全域が高梁たかはし川水系に属し、北部から中部にかけては東城川流域、南部は帝釈たいしやく川流域である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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