日本の城がわかる事典 「利府城」の解説 りふじょう【利府城】 宮城県宮城郡利府(りふ)町に中世から近世にかけてあった山城(やまじろ)。仙台平野北東端の丘陵につくられ、幅100~250m、南西1kmほどの規模を持っていた。もとは村岡城と呼ばれ、陸奥南部の名門で、のちに伊達氏に従属した留守氏の一族の村岡氏の居城であった。築城年代、築城者は不明。留守氏当主は、14代郡宗、16代景宗、17代政景と伊達氏から入嗣が行われたが、17代政景(伊達政宗(だてまさむね)の叔父)の当主就任に際して、この城の城主の村岡兵衛が頑強に反対し、村岡氏は1569年(永禄12)に挙兵して村岡城に立て籠もった。政景はこれを攻撃して、翌1570年(元亀1)に落城。村岡氏は滅亡した。政宗は、政景を岩切城(仙台市宮城野区~利府町)の城主としたが、政景はその後、村岡城を修築し、国府の多賀城近くにあり、利便性のよい城という意味から、名を利府城に改め、元亀年間(1570~73年)に居城を岩切城から移した。しかし、利府城は1590年(天正18)、豊臣秀吉の奥州仕置で、留守氏の所領は伊達家家中とみなされて没収され伊達家の領地になったのに伴って廃城となった。政景はその後諸城を転々としたが、元和年間(1615~23年)に一ノ関2万石の城主となった。利府城跡は現在、北東の3つの郭のうち、中央と南西の郭が館山公園として整備されて、桜の名所にもなっている。また、南西の2つの郭跡は現在、住宅地になっている。◇村岡城とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報