日本の城がわかる事典 「岩切城」の解説 いわきりじょう【岩切城】 宮城県仙台市宮城野区と宮城郡利府(りふ)町にまたがる高森山の山中にあった、室町時代初期(南北朝時代)から戦国時代にかけての山城(やまじろ)。国指定史跡。戦国時代の留守氏の居城として知られ、東西約500m、南北約400mの規模で、標高106mの高森山の峻険な尾根を利用して曲輪(くるわ)や掘割を設けていた。郭、堀、井戸跡、土塁が現存している。この城は南北朝時代に北朝方の畠山国氏が居城としていた。南北朝時代の初め、南朝方は、陸奥守北畠顕家・北畠親房とともに、後醍醐天皇の皇子義良(のりよし)親王(後の後村上天皇)を多賀城(多賀城市)に置いて陸奥将軍府とし、ここを拠点に組織された奥羽軍は京都で足利尊氏と戦い、尊氏を九州へ敗走させている。その後、南朝方の奥羽軍は2度目の畿内遠征を行うが、顕家らの留守をついて北朝方の奥州管領吉良貞家とともに多賀城を攻撃し、義良親王らを霊山(りょうぜん)城(福島県相馬市、伊達市)に追いやった武将が畠山国氏である。戦国時代には、岩切城は岩切、利府、多賀城の一帯を所領としていた留守氏の居城となった。伊達政宗(まさむね)が東北地方南部を攻めて所領に組み込んだ際、政宗は叔父の留守政景(伊達政景)を岩切城主としている。元亀年間(1570~73年)、政景は居城を利府城(宮城郡利府町)に移したが、その際、岩切城は廃城となった。現在、城跡は県民の森の一部となっており、桜の名所として知られている。JR東北本線岩切駅の北西約2kmの場所にある。◇高森城、高森館、鴻の館とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報