日本歴史地名大系 「到津村」の解説 到津村いとうづむら 福岡県:北九州市(旧豊前域)小倉北区到津村[現在地名]小倉北区上到津(かみいとうづ)一―四丁目・下到津(しもいとうづ)一―五丁目・都(みやこ)一―二丁目・板櫃町(いたびつまち)・金鶏町(きんけいちよう)・真鶴(まなづる)一―二丁目菜園場(さえんば)村の南東に位置し、南は長崎街道を挟んで篠崎(しのざき)村などと接する。古くからの船着場とされ、神功皇后をめぐる伝承がある。中世は到津庄などとみえる。鎌倉期宇佐宮大宮司の代官として清末氏が居城したと伝える引地山(ひきちやま)城(到津城)があり、跡地の同山最上部に土塁の壁がわずかに残る。元和二年(一六一六)庄屋が独断で高免にしたとして当村百姓が逃散、細川忠興は「後之さゝハりニ成」と百姓全員を「なてきり」に処し、名子女子以下は助け、田畠を与えて本百姓に取上げた。また中国方面から田川郡に入植していた有力百姓善兵衛に明田畠を渡し、無残所の耕作に当たらせたが、細川忠利の代にその過半を取上げられ、筋目の百姓(逃散百姓)の耕作分とされたという(北九州市史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by