劉寧一(読み)りゅうねいいつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉寧一」の意味・わかりやすい解説

劉寧一
りゅうねいいつ / リウニンイー
(1905/1906―1994)

中国労働運動家。河北(かほく)省満城県生まれ。1925年の五・三〇事件以来、華北で労働運動に参加。1932年唐山炭鉱ストを指導して入獄。1937年出獄して、上海(シャンハイ)で労働運動を指導。1943年以後延安(えんあん)で労組を指導。1948年ハルビンで中華全国総工会副主席。1949年新政府成立とともに政治協商会議常務委員。1953年ウィーン世界労連大会出席。同年、アジア太平洋平和連絡委員会秘書長。1955年(昭和30)広島での原水爆禁止世界大会に中国代表団長として初来日した。1956年中国共産党中央委員。1958年全国総工会主席。1963年モスクワでの中ソ党会談に参加。1965年全国人民代表大会副常務委員長。1966年中国共産党中央書記。「文化大革命」中の1968年失脚したが、1979年になって党統一戦線副部長、政治協商会議副秘書長として復活した。

[高市恵之助]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「劉寧一」の意味・わかりやすい解説

劉寧一
りゅうねいいち
Liu Ning-yi

[生]光緒31(1905)河北,満城
[没]1994.2.15. 北京
中国の政治家,労働運動指導者。 1925年の五・三〇事件に参加し,その後華北の労働運動を指導,逮捕されて入獄。 1937年日中戦争勃発直後に出獄し,上海の労働運動を指導,1943年延安に入った。 1948年第6回全国労働大会で中華全国総工会副主席。 1953年中国人民世界平和擁護委員会秘書長となり,各種の国際会議にも出席。 1956年中国共産党第8期全国代表大会で党中央委員。その後中華全国総工会主席,中国人民世界平和擁護委員会副主席,中国アジア=アフリカ団結委員会副主席などに選ばれ,数回日本を訪れた。文化大革命の過程で 1968年批判を受け失脚。

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百科事典マイペディア 「劉寧一」の意味・わかりやすい解説

劉寧一【りゅうねいいつ】

中国の政治家,労働運動の指導者。河北省の人。五・三〇運動以来労働運動を指導し投獄される。抗日戦中に出獄。1943年延安に入る。1948年中華全国総工会副主席,国際連絡部長,世界労連副主席。1956年以後,中央委員として要職歴任文化大革命で批判された。1979年復活。

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