コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう Zhongguo gong-chan-dang

7件 の用語解説(中国共産党の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国共産党
ちゅうごくきょうさんとう
Zhongguo gong-chan-dang

中国の政党で,マルクスレーニン主義毛沢東思想鄧小平理論などを指導理念とする世界最大の共産党。1921年7月1日上海で創立。当初よりコミンテルンの指導を受け,陳独秀を指導者として都市労働者を中心に支持層を形成。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

知恵蔵2015の解説

中国共産党

中国革命の担い手であり、社会主義建設を国是とする中華人民共和国の指導政党。党員は2007年7月現在、約7300万人。機関紙は「人民日報」。1921年に陳独秀(チェン・トゥシウ)、李大ショウ (リー・ターチアオ)らの革命的知識人が中心となり、コミンテルンの指導を受けて創立。24年には第1次国共合作に成功、27年には労農紅軍を創建し、31年には解放区としての中華ソビエト臨時共和国政府を瑞金に樹立した。長征途上の遵義会議(35年)で毛沢東が指導権を確立、36年の西安事件の後、抗日民族統一戦線を結成、第2次国共合作が成った。延安の根拠地を中心に基盤を固め、第2次大戦後の国共内戦を経て49年10月1日、中華人民共和国を樹立した。建国後は土地改革社会主義改造に着手したが、50年代半ばから毛沢東主導の急進的な農業集団化が始まり、58年には全国の農村が人民公社化された。60年代後半からは毛沢東思想絶対化の下で文化大革命を発動、悲劇的な結末を招いた。76年9月の毛沢東の死後、同年10月の四人組逮捕による北京政変が起こった。その後は非毛沢東化が進み、78年12月の3中全会(中国共産党第11期第3回中央委員会総会)でトウ小平(トン・シァオピン)が華国鋒(ホワ・クオフォン)に代わって党内主導権を確立、「四つの現代化」を目標とする「改革・開放」の政策が行われた。81年6月の6中全会では、胡耀邦(フー・ヤオパン)が主席となり、「建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議」を採択、毛沢東政治を全面的に否定した。82年9月の第12回党大会からは従来の主席制に代わって総書記制がとられたが、87年1月には胡耀邦総書記が民主化に加担したとして解任された。87年秋の第13回党大会(全国代表大会)では趙紫陽(チャオ・ツーヤン)総書記によって、中国社会の現状は未発達の資本主義的要素を残す社会主義の初級段階だと規定された。89年6月の血の日曜日事件後(第2次天安門事件)には趙紫陽総書記を「反革命暴乱」を煽動したとして解任、江沢民(チアン・ツォーミン)元上海市長が後任となったが、中国の悲劇を代償に同年秋以降、東欧社会主義国が崩れ、91年夏の「ソ連政変」によるソ連共産党解体という社会主義世界の大変動に直面した。92年秋の第14回党大会では江沢民総書記のもとで社会主義市場経済というテーゼを採択し、同時に「改革・開放の総設計師」トウ小平への礼賛ムードが高まった。そのトウ小平が97年2月に死去したのち、中国共産党は同年9月に第15回党大会を開催し、「トウ小平理論」を党規約に明記して第2期江沢民体制をスタートさせた。江沢民総書記の権力基盤は強化されたが、党員の不正や汚職も目立ち、経済成長の半面で社会的矛盾が深まった。江沢民は2000年春以降、「三つの代表」(党は先進的生産力、先進的文化、人民の利益の代表である)を唱え、01年7月の党創立80周年を迎えた。02年11月の第16回党大会で、胡錦涛(フー・チンタオ)が党総書記に就任したが、江沢民は党中央軍事委員会主席の地位を保持。しかし、04年9月の16期4中全会で辞任を余儀なくされ、胡錦涛国家主席が党軍事委主席になり、党・政・軍の全権を握っている。07年10月の第17回党大会では、胡錦涛主席が「科学的発展観」を提起し、党規約にも記された。また、政治局常務委員には習近平(シー・チンビン)、李克強(リー・コーチアン)らの若手が登用された。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)

出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵2015」
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ちゅうごく‐きょうさんとう〔‐キヨウサンタウ〕【中国共産党】

中国の政党。1921年、李大釗(りたいしょう)陳独秀らが上海で結成。中国国民党との提携・分裂を経て、1931年、毛沢東の指導の下で江西省瑞金に中華ソビエト共和国を建設したが、国民党の圧迫をうけ陝西(せんせい)省延安に根拠地を移動。1937年、再び国民党と合作して抗日統一戦線を形成。第二次大戦と内戦を経て、1949年10月、中華人民共和国を建国。中共。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

中国共産党【ちゅうごくきょうさんとう】

1921年に成立した中国の政党。中共と略称された。前年陳独秀らが上海で設立準備。1924年中国国民党と共産党が連携する第1次国共合作後,労働者・農民への指導力が次第に増大した。
→関連項目金日成江沢民抗日戦争五星紅旗胡耀邦周永康周恩来朱徳人民日報対華白書塘沽停戦協定譚平山中国人民解放軍中国人民政治協商会議中国民主同盟張春橋趙紫陽陳雲陳毅陳紹禹【とう】穎超董必武日本共産党野坂参三方励之姚文元李宗仁李大【しょう】劉賓雁林伯渠

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

世界大百科事典 第2版の解説

ちゅうごくきょうさんとう【中国共産党 Zhōng guó gòng chǎn dǎng】

中華人民共和国の指導政党。1997年現在,5800万人の党員を擁する。
[創立期(1919年5月~23年5月)]
 ロシア革命の思想的影響と五・四運動の体験を通じて,中国の急進的知識人のあいだにマルクス主義への関心が高まり,1920年春以降,コミンテルンの働きかけと支援を受けて結党の準備が進んだ。陳独秀李大釗(りたいしよう)がその中心となり,8月,上海で臨時中央(発起組)を発足させ,同時に外郭の半公然組織として社会主義青年団を結成して進歩的青年の結集につとめた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ちゅうごくきょうさんとう【中国共産党】

中華人民共和国の主導的な政党。1921年,陳独秀・李大釗りたいしようらが上海で創立。国共分裂後,江西省瑞金に中華ソビエト政府を樹立。長征をへて根拠地を陝西省延安に移す。西安事件後,第二次国共合作による抗日民族統一戦線を結成。毛沢東の新民主主義論を採択して思想統一と党勢拡大に努め,八路軍・新四軍として抗日戦を戦った。第二次大戦後,内戦に勝ち,49年,中華人民共和国を樹立させた。中共。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国共産党
ちゅうごくきょうさんとう

1921年、陳独秀(ちんどくしゅう/チェントゥーシウ)らが結成、中国国民党との抗争に勝利し、1949年新政権を樹立、以後独裁政党として中華人民共和国を統治している執政政党。略称「中共」。英語表記はChinese Communist Party(略称CCP)。党総書記は胡錦濤(こきんとう/フーチンタオ)。党員数は7593万人(2008)。[辻 康吾]

結党から中華人民共和国建国まで(1921~1949年)

19世紀なかばからの列強の侵略、清(しん)朝の失政により中国は亡国の危機に直面し、さまざまな改革、革命運動が起き、1911年の辛亥革命(しんがいかくめい)で最後の王朝清が崩壊した。翌1912年中華民国が成立するが、内外の紛争が続くなかで1917年のロシア革命の影響とコミンテルン(第三インターナショナル)の指導により、1921年に陳独秀らが上海(シャンハイ)で中国共産党を結成した。1924年、袁世凱(えんせいがい/ユアンシーカイ)政権と対立して広東(カントン)に革命政府を樹立していた国民党と合作(第一次国共合作)した。孫文(そんぶん/スンウェン)没後の1926年全国統一を目ざし、蒋介石(しょうかいせき/チアンチエシー)が指揮する北伐に参加した。しかし両党の革命路線の違いなどから1927年4月、国民党が反共クーデターを起こし、敗北した共産党は地下組織となり、江西(こうせい/チヤンシー)省西部の井岡山(せいこうざん/チンカンシャン)などに根拠地を設け、1931年には同省東部の瑞金(ずいきん/ロイチン)に中華ソビエト政権を樹立した。だが国民党軍は共産軍の掃討を続け、1934年共産党は井岡山を放棄して、長征に出発した。長征は多大な犠牲を払いながらも1935年陝西(せんせい/シャンシー)省に到着し、根拠地を築いた。長征途中の1935年貴州(きしゅう/コイチョウ)省遵義(じゅんぎ/ツンイー)で開かれた中央政治局拡大会議で、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)が中央書記処書記に選ばれ、軍事指揮権を掌握、以後毛沢東の党内指導権が強まっていく。
 1936年、日本軍に東北(満州)を追われた張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)らは西安(せいあん/シーアン)に来た蒋介石を拘束し、国共内戦の停止と抗日統一戦線の結成を迫った(西安事件)。国共両党の合意で蒋介石は釈放され内戦は中止された。さらに1937年7月の盧溝橋(ろこうきょう/ルーコウチアオ)事件で日中戦争が始まり、両党はふたたび合作した(第二次国共合作)。日中戦争は日本軍と国民党軍の戦闘が主流であり、共産軍は後方でゲリラ戦をしながら勢力圏と兵力を拡大した。この間延安(えんあん/イエンアン)にいた毛沢東は、1942年から整風運動を行い、党内の思想統一を図った。1943年、毛沢東は党主席に選出されると、1945年の党大会で毛沢東思想が党規約に盛り込まれ、党の指導思想となった。1945年8月の日本の敗戦後、両党は統一政権樹立のため重慶(じゅうけい/チョンチン)で会談して重慶協定を結ぶが、両軍の衝突は激化しふたたび内戦が始まった。この戦いは共産軍の勝利に終わり、国民党は台湾に撤退した。共産党主導で招集された政治協商会議を経て、1949年10月1日、北京(ペキン/ペイチン)で中華人民共和国の樹立が宣言され、毛沢東が初代国家主席に就任した。[辻 康吾]

建国から文革終了まで(1949~1976年)

1949年に樹立された中華人民共和国は当初、民主諸党派・愛国人士が参加する連合政府として出発した。しかし翌1950年の朝鮮戦争の勃発、東西冷戦の激化のなかで土地改革や資本家を抑圧する三反五反運動が進められ、また農地の集団化などしだいに社会主義色を強め、1954年制定の憲法前文において共産党の指導が明記された。また中国共産党は当初スターリン型社会主義路線を踏襲したが、しだいに中国独自の社会主義を追究し、毛沢東の個人独裁が強化されていった。スターリン死去後の国際共産主義運動の雪解けのなかで、1956年中国でも言論の自由などを奨励する「百花斉放・百家争鳴」運動が展開された。しかし1957年に入ると一転して知識人を対象とした反右派闘争が展開され、50万人以上の著名な学者、知識人、幹部らが右派分子として処分された。
 独自の社会主義観を抱く毛沢東は、1958年から「大躍進」政策を展開した。コミューン思想に基づくユートピア的社会、国家建設を目ざして、無謀な超高度成長政策や農村の人民公社化などを実施したが失敗に終わり、1961年までに数千万人の餓死者を出す結果となった。しかし毛沢東は、1959年に国家主席を劉少奇(りゅうしょうき/リウシャオチー)に譲りながらも、廬山(ろざん/ルーシャン)会議で大躍進政策を批判した彭徳懐(ほうとくかい/ポントーホアイ)国防相らを粛清し、同じく大躍進政策に批判的、消極的であった300万人以上の幹部を右傾日和見(ひよりみ)分子として処分した。
 1962年大躍進政策は中止され、劉少奇国家主席らが経済調整政策をとって経済は回復し始めた。しかし毛沢東は同年の党中央委員会で、社会主義革命以後も資本主義が復活し階級闘争が続くとする「継続革命論」を提起し、党規約に盛り込んだ。ソ連共産党との関係はすでに悪化していたが、1963年から激しい公開論争が展開され、互いの国益や国際共産主義運動の主導権をかけて対立、国際共産主義運動は分裂した。
 1966年、毛沢東は「継続革命論」に基づき劉少奇ら実務派幹部を「資本主義の道を歩む実権派」として打倒することを決意し、プロレタリア文化大革命(文革)とよばれる大政治闘争を発動した。党内少数派となっていた毛沢東は解放軍を率いる林彪(りんぴょう/リンピァオ)、江青(こうせい/チヤンチン)夫人ら腹心を動員、また紅衛兵とよばれた青少年や造反派(謀反派)大衆を扇動して実権派打倒の大闘争を展開した。文革中、従来の党組織は解体され、革命的大衆などによる革命委員会が組織された。1969年には中ソ国境で軍事衝突が発生し、また劉少奇が迫害の下で病死するなど混乱は激化し、公式に毛沢東の後継者として党規約にまで明記された林彪が、1971年ソ連への亡命途中モンゴルで墜落死するなど、混迷はいっそう深まった。1976年毛沢東に忠誠を誓いながらも事態の収拾に努めてきた周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)首相が死去すると、「四人組」とよばれた江青、張春橋(ちょうしゅんきょう/チャンチュンチャオ)ら毛沢東腹心への不満、ひいては毛沢東への不信を募らせた大衆が、周恩来追悼を口実に天安門広場で抗議運動を展開したが弾圧された(第一次天安門事件)。だが同年9月、毛沢東の死去直後に「四人組」は逮捕され、文革は終結した。[辻 康吾]

近代化路線への転換(1976年~ )

毛沢東路線の継承を誓った華国鋒(かこくほう/ホワクオフォン)が党主席となるが、小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)ら古参幹部がしだいに実権を握り、改革派の胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)らを抜擢(ばってき)して文革被害者を救済し、党組織の回復を進めた。1978年末の党中央委員会全体会議(三中全会)は党の路線、政策を従来の革命路線から経済建設へと大転換する決議を採択し、改革開放政策が始まった。1981年には同じく党中央委員会は文革を否定し、毛沢東を部分批判する決議を採択、胡耀邦が党主席(後に党総書記)に就任した。以後人民公社の解体、経済特区開設、外資導入、市場経済の導入など近代化(中国語では「現代化(シェンタイホワ)」)を目ざすさまざまな改革が行われ、経済は急速に回復し始めた。
 だが、その後も党内では改革派と保守派の抗争が続き胡耀邦が失脚した。1989年6月、胡の死を悼み民主化を求めて天安門広場に集まった学生、市民を解放軍が武力弾圧し、多くの死傷者を出す第二次天安門事件(六・四事件)が発生した。この事件で、胡耀邦失脚後総書記となっていた改革派の趙紫陽(ちょうしよう/チャオズーヤン)も失脚した。ベルリンの壁の崩壊(1989年11月)、ソ連の解体(1991年12月)、東欧社会主義体制の崩壊など社会主義諸国が激動するなかで、中国共産党は武力によって独裁体制を堅持した。だが経済改革は継続し、小平に推挙された江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)総書記は、国内の低賃金労働力と外資導入を結び付けることでまず沿海地区の超高度成長を促進し、2000年からは「三個代表」理論を提唱し、一部私営企業家(資本家)の共産党入党をも認めた。
 江沢民総書記は、経済優先路線で大きな成功を収めたが、共産党およびその関係者が資源の配分権、基幹産業の支配権を掌握し、膨大な利益をあげることを容認した。その結果、社会矛盾がしだいに激化してきた。だが共産党は言論抑圧、公安権力の強化などによって秩序を維持し、民主化など政治体制の改革は放置された。2002年胡錦濤が総書記に就任したが、基本路線は変更されなかった。天災(2007年大水害、2008年雪害、四川大地震)や少数民族紛争(2008年チベット暴動、2009年新疆(しんきょう/シンチヤン)暴動)など多くの事件が発生したが、オリンピックの開催(2008)、軍事力の強化などにより国威を発揚した。しかし経済高度成長偏重の結果、権力者の腐敗の増大、格差の拡大、社会秩序の混乱は激化し、民間のみならず党内でも政治体制改革の必要性を唱える声が出ている。[辻 康吾]

組織・指導者

現行の党規約によれば、党全国代表大会(2007年第17回大会を開催)と、大会が選出する党中央委員会(同大会では中央委員204人・同候補167人)を最高機関とする。党中央委員会が党総書記、中央政治局常務委員、中央政治局委員、中央書記処書記、中央軍事委員会委員など中央指導者を選出する。行政組織と並行して中央の国務院(内閣)から司法、軍、企業、社会団体、農村など社会のあらゆる組織に党委員会、党支部、党小組が設置され指導権を掌握している。1949年の建国以後の最高指導者は次のとおり。毛沢東、華国鋒、胡耀邦、趙紫陽、江沢民、胡錦濤。
 なお中国共産党は独裁政党であるが、憲法上では「民主諸党派」とよばれる小政党(中国国民党革命委員会など8政党)の存在が認められ、共産党の協賛機関となっている。[辻 康吾]
『天児慧他編『岩波現代中国事典』(1999・岩波書店) ▽ユン・チアン著、土屋京子訳『マオ――誰も知らなかった毛沢東』上下(2005・講談社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の中国共産党の言及

【国共合作】より

…中国国民党と中国共産党との〈合作〉(提携)をいう。前後2回実現して中国現代史の展開に決定的な意義をもった。…

【中華人民共和国】より

…正式名称=中華人民共和国People’s Republic of China面積=960万km2人口(1996)=12億2390万人(台湾・香港・澳門を除く)首都=北京Beijing(日本との時差=-1時間)主要言語=中国語(漢語)通貨=元Yuan
【概況】

[建国]
 1949年10月1日,北京(当時は北平と呼ばれた)の天安門楼上で,中国共産党主席毛沢東は,中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。これによって,台湾および金門,馬祖など若干の島嶼(とうしよ)をのぞき,中国大陸に真の統一国家が実現し,この日はこれ以後,建国記念日,すなわち国慶節として国家の記念日に指定された。…

【中ソ論争】より

…国際共産主義運動の路線をめぐり,1960年から64年にかけておこなわれた中国共産党とソビエト連邦共産党との論争。国家関係にまで波及し,中ソ両国の対立を決定的なものとした。…

【長征】より

…もっとも遠距離を行軍した部隊は2万5000華里(1万2500km)を踏破したことから〈万里長征〉とも呼ばれる(図)。 中国共産党は〈王明(陳紹禹)路線〉の政治的・軍事的誤りのために,国民政府軍の第5次包囲討伐を撃退できず,陝西北部を除く各革命根拠地(ソビエト区)の放棄をよぎなくされた。34年8月,まず紅軍第6軍団が湘贛(しようかん)根拠地から包囲を突破して西進,貴州省東部で第2軍団と合流(紅軍第2方面軍)して湖南西部に進出した。…

【陳独秀】より

…安徽省懐寧出身。活動内容からいえば彼の生涯は民族主義者(1900‐12),民主主義者(1913‐20),社会主義者(1921‐28),さらにトロツキスト(1929‐)の4期に分かれるが,中国の社会と政治に最も大きな影響を与えたのは,急進民主主義者として五・四運動期の新文化運動を指導した第2期,そして中国共産党を創立し指導した第3期である。青年時代には反清の革命家として新聞記者,愛国会,秘密結社岳王会等の組織者として活動したが,辛亥革命の失敗が明らかとなってからは,それまでの会党式の組織方法による革命への反省から,国民の文化思想面での革新へと方向を転じた。…

※「中国共産党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

中国共産党の関連キーワード一国社会主義永続革命論市民階級中国革命同盟会プロレタリア革命社会主義革命ステートソシアリズム二段革命総路線《中国革命の内部》

今日のキーワード

朝鮮大学校

東京都小平市にある在日朝鮮人子弟のための学校。1956年設立,1968年各種学校として認可。朝鮮総連系の東京朝鮮学園が経営。大学教育に準ずる民族教育を目的とし,4年制の文学,歴史地理,政治経済,経営,...

続きを読む

コトバンク for iPhone

中国共産党の関連情報