加田村(読み)かだむら

日本歴史地名大系 「加田村」の解説

加田村
かだむら

[現在地名]長浜市加田町

村の東、永久寺えいきゆうじ村の南にあり、亀岡かめおか山を挟んで南は加田今かだいま村。現加田今町を含めて神田かんだとよぶ。天文一三年(一五四四)加田口において浅井久政と京極高広両軍の合戦があったといわれる(年未詳一〇月二日「浅井久政感状」垣見文書など)。天正元年(一五七三)の作職算用帳(坂田郡志)に加田分として、小字名・畝歩・高・人物名がみえる。同一〇年六月一八日には柴田勝家禁制(小川文書)が加田庄地下人中宛に発せられている。慶長八年(一六〇三)年貢皆済目録(加田共有文書)では高一千九四三石余、免六ツ一分、納米一千一八五石余、うち一一八石余大豆納、一千六七石余米納とある。同一二年には高一千九一二石余、このうち一千二〇五石余・六ツ三分を納め、大豆は一二〇石余だった(同文書)。慶長一九年の成瀬正一知行目録(記録御用所本古文書)に「寒田村」高三七二石余とあり、当村のことと思われる。

寛永石高帳に高一千九一二石余とあり、彦根藩領。元和六年(一六二〇)の年貢皆済目録(加田共有文書)では、物成一千二八一石余、うち二二石余千石夫米・一一石余五〇〇石御仲間米とある。


加田村
かだむら

[現在地名]伊野町加田

こうたに村南西の仁淀によど川が蛇行する北岸にある。吾川郡に属し、「土佐州郡志」は「東西十四町南北十三町余」と記す。加多村(元禄地払帳)賀田村(元禄郷帳)とも記される。天正一七年(一五八九)の下分七名地検帳には「賀多村」とみえ、すべて吉良親実領で、勝賀瀬右京進らに給地として分与されているところもある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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