日本歴史地名大系 「賀田村」の解説 賀田村かたむら 三重県:尾鷲市賀田村[現在地名]尾鷲市賀田町古江(ふるえ)浦の西、賀田湾奥にある。古(ふる)川が西より東に流れ賀田湾に入り、上流は平(ひら)谷と茶の又(ちやのまた)の二谷に分れる。いずれも標高九二七・二メートルのゲジョ山を水源とする。村の北に標高六八八・五メートルの亥谷(いかだに)山があり、温暖の地である。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「賀田村」と記され、家数八五。加田・嘉多・嘉田・賀太とも書く。同九年江戸城修理のため紀伊国へ三九三艘の石船建造が命じられ、うち賀田村へは三木里(みきさと)浦と合同で三〇艘が割当てられ、船造りのため大工・人夫ら一四二人が動員された(「自得公済美録」浅野家蔵)。 賀田村よしたむら 青森県:中津軽郡岩木町賀田村[現在地名]岩木町賀田百沢(ひやくざわ)道に沿い、東は坪貝(つぼかい)村に続き、北西は八幡(やわた)村、西は五代(ごだい)村に接する。古来、岩木山の東麓を大浦(おおうら)とよぶ習わしがあり、天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字には大浦七郷とみえる。文亀二年(一五〇二)大浦城が築かれると、同城は以後代々大浦氏の居城とされ、文禄三年(一五九四)津軽(大浦)為信が堀越(ほりこし)城(現弘前市)に移るまで、当地は城下町として栄えた。慶長一五年(一六一〇)構築の弘前城(現弘前市)北内門を賀田門としていることから、この頃すでに賀田の名はあったと思われる。その由来については、岩木山百沢寺縁起にみえる芳田・慶田・吉田にあやかったものと解される(岩木町誌)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報