北俣村(読み)きたまたむら

日本歴史地名大系 「北俣村」の解説

北俣村
きたまたむら

[現在地名]平田町北俣

山谷やまや村の東にあり、北東は上南青沢かみみなみあおさわ(現八幡町)相沢あいさわ川上流山間の村。江戸後期の出羽荘内二郡絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)によると相沢川右岸上流からうみさわ座頭沢ざとうさわ鹿島かしま達中たつちゆう丸山まるやま道場屋敷どうじようやしきよしさわ中村なかむら井戸屋いどや円道えんどう・円道新田、同左岸上流から岩屋いわやたきくち小向こむかい向鹿島むかいかしま西にしさわ鴨侍かもさむらい小畑こはた北俣きたまたと小沢に沿って一九の集落が散在している。鎌倉時代から室町時代にかけての本宮もとみや墳墓がある。

「大泉庄三権現縁記」永正三年(一五〇六)の記事に「北俣ハ由利相川殿御分」とあり、由利ゆり(現秋田県)相川氏の所領であった。康平年中(一〇五八―六五)前九年の役の際に阿倍盛任・盛季父子は逃れて鷹尾山別当宝蔵ほうぞう寺に投じ、子孫は鷹尾たかお山に住み別当職を継承した。阿倍良輝のとき天文二年(一五三三)磐井出いわいで(地内小槌ヶ嶽)を築き武藤氏の支配下となる。天正一六年(一五八八)十五里ヶ原合戦の際、上杉氏と戦い良輝の子輝貞は討死する。上杉領となって後、同一八年検地反対一揆を起こしたが、翌一九年東禅寺とうぜんじ(現酒田市)城主甘粕景継は部将志駄修理を派遣して磐井出館を攻め落した。


北俣村
きたまたむら

[現在地名]綾町北俣

入野いりの村の西にあり、南は南俣村、西は須木すき(現須木村)に接する。北方に矢筈やはず岳がそびえ、村内を北西から南東に綾北あやきた川が流れる。東方入野村に飛地八町はつちようみやした小山田おやまだがある。慶長一九年(一六一四)の比志島国貞等連署知行目録(重信家文書)では、「綾北方村」のうち上合子木門の高二〇石の知行が宛行われている。近世初期には綾北方あやきたかた村もしくは北方村とよばれた。綾郷の麓村でその地頭館が龍之尾たつのお(綾城)の麓に置かれた(三国名勝図会)。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳では北方村とあり表高一千四八一石余。天保郷帳や幕府へ提出の資料類では北方の村名が幕末まで使用された。日向国覚書も北方村で「川ハタ・歩渡」「北方川広サ二十六間深サ二尺」の注記がある。しかし鹿児島藩領内では北俣村もしくは綾北俣村とよばれた(明暦三年「日州諸外城引并例竿日帳」東郷家文書など)


北俣村
きたまたむら

[現在地名]財部町北俣

南西に白鹿しらが岳があり、横市よこいち川と合流するうしろ(北俣川)大峰おおみね川が流れる。北は下財部村、南は南俣みなみまた村。中世は財部院のうちで、近世は財部郷に属したが、近世初期の村切では数ヵ村からなっていた。慶長六年(一六〇一)六月吉日の伊集院久治・山田有信連署知行目録(旧記雑録)に「北俣谷門村」とみえ、権祝子太郎に宛行われた「日光神村」内の修理田のうち下田五反余などが北俣谷門村の弥七・三郎右衛門を名請人としていた。同一一年五月には「浦興禅寺」の田地など二〇石が伊畦五郎介の知行となっている(「伊集院久治・山田有信連署知行地割目録」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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