日本歴史地名大系 「平田町」の解説
平田町
ひらたまち
- 島根県:平田市
- 平田町
出雲平野の北東端に位置し、周囲は平田村
〔町勢〕
正保四年(一六四七)の平田町地銭帳によると地銭を徴収する屋敷数は上々屋敷一二・上屋敷一六・中上屋敷一三・中屋敷二三・下屋敷二四・下々屋敷三七、これに地銭免除の五軒を合せると計一三〇軒の町屋敷があった。明暦三年(一六五七)の地銭帳では上屋敷四三・中屋敷二〇・下屋敷三〇・下々屋敷三一となり、これに地銭免除一〇軒を加え一三四軒。延宝九年(一六八一)の地銭帳では本町九一軒・新町八二軒に分けて記載され、合せて一七三軒となり町並の発展をうかがわせる。同地銭帳では、本町に御茶屋床・十王堂敷・通道・法恩寺小路・御蔵道・本妙寺小路・御札場、新町に水道・極楽寺小路・悪水貫などの小路や施設があったことが知られ、町役人として目代一・年寄三・舟目代二・下役人二・橋守一などが置かれていた。また、本町でみると各屋敷の間口は二間余から一〇間以上と広狭さまざまであったが、奥行はほぼ一七間に統一されていた。なお、前掲明暦の地銭帳では屋敷名請人の肩書に大谷・常松・儀満・長廻・小村・竹田・加藤・杉原・福島・渡部・三島・後藤・川瀬・尾村、平野(屋)など名字を記したものがあるが、のちに当町きっての豪家となった木佐家はまだ進出しておらず、その名はみえない。寛政四年(一七九二)の万差出帳(平田市立旧本陣記念館蔵)では家数二九三、しかし竈数は四五六で多数の借家人の存在をうかがわせる。天保一四年(一八四三)には竈数六〇五となり(「東組・西組順村手引帳」平田市立図書館蔵)、明治七年(一八七四)には八〇六軒のうち二九八軒が家持、五〇八軒は借家であった(旧平田町役場文書)。
平田町
ひらたまち
- 山形県:飽海郡
- 平田町
郡の南東部にあり、
律令制下の当町域は「和名抄」にある飽海郡飽海郷と
平田町
ひらたまち
平田町
ひらたちよう
- 岐阜県:海津郡
- 平田町
郡北部に位置し、東はほぼ長良川を境に羽島市、北は
平田町
なめだまち
平田町
ひらたまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報