朝日日本歴史人物事典 「北条宗方」の解説
北条宗方
生年:弘安1(1278)
鎌倉後期の武将。父は宗頼。母は大友頼泰の娘。北条貞時の猶子。永仁5(1297)年から正安2(1300)年まで六波羅探題。探題補任の任務は永仁の徳政令の西国での施行にあったとみられる。探題退任後,評定衆,翌3年に引付頭人に任ぜられたが,同年8月の執権・貞時の出家と時村の連署就任後に,宗方自身の希望により引付頭人を退任し越訴頭に就任。時村との対立が背景にあった。翌乾元1(1302)年に引付頭人に転じ,嘉元2(1304)年に内管領平宗綱の配流により,貞時の侍所頭人・内管領に就任し,翌3年まで越訴頭に在任したが5月4日に時村を暗殺したのち自身も貞時に討たれた。<参考文献>佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』,細川重男「内管領長崎氏の基礎的研究」(『日本歴史』479号)
(福島金治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報