鎌倉・室町幕府の職制。鎌倉幕府が承久の乱(1221)後に評定衆を置いて,政務・裁判の評議を行うこととしたのに始まるが,その淵源は1199年(正治1)将軍源頼家の独裁を排除し,北条時政以下13人の有力御家人の合議による評定が行われたことにある。それ以後,北条氏を中心とする有力御家人による評定がしだいに定着してゆくが,執権北条義時と政子の相つぐ死去の後,1225年(嘉禄1)に執権北条泰時によって評定衆がはっきりした制度として置かれ,評定会議は幕府の政務・裁判の最高評議機関として確立した。32年(貞永1)制定の《御成敗式目》もこの評定の議を経たものである。評定衆は評定会議にのぞんでは起請文を提出し,私を無くし政道に尽くすことを誓った。そのメンバーは執権・連署をはじめとする北条氏一門と,大江,二階堂,三善,清原,中原等の吏僚層が大半を占め,ときに三浦,千葉,安達等の有力御家人が選ばれたものの,それは世襲にはいたらなかった。こうして評定制は北条氏の執権政治を支える役割を果たし,49年(建長1)に御家人訴訟を扱う裁判機関として引付衆が置かれると,評定衆と引付衆は一体となって幕府の政治・裁判制度の完成をもたらした。北条氏一門の評定衆は引付衆を兼ね,中でも引付頭人は一門が独占して北条執権体制はここでも貫徹していた。だが引付衆を経て評定衆となる一門の出世コースがはっきりしてくると,若年の評定衆も出現し,評定会議そのものの機能低下が問題となる。しかも北条氏家督の得宗を中心とする専制政治の傾向が強まると,評定衆の弱体化は決定的となる。すなわち評定会議は形式化し,その内実は得宗を中心とする一門や御内人数人のメンバーによる私的な会合である寄合(よりあい)に奪われてゆく。鎌倉幕府では六波羅や鎮西にも探題を中心に評定衆が置かれ,同様な機能を果たしたが,幕府の要請によって後嵯峨院にも評定衆が置かれて,院評定制として制度的発展をみる。
室町幕府は鎌倉幕府の職制をそのまま継承して評定衆を置いたが,鎌倉後期に始まった評定の形式化の流れはおしとどめがたかった。ことに幕府は積極的に裁判を扱おうとしなかったため,評定衆の活動を支える引付制が初期を除いてはあまり機能しなかった。また将軍の親裁的傾向が強く,評定には政務の合議機関としての機能が欠けていた。したがって評定衆の存在はまったく名目的なものとなり,鎌倉幕府以来の吏僚的評定衆を中心とする幕府内の一身分に位置づけられるにすぎなくなった。そのことをよく示すのが式評定衆の存在で,彼らは例式のときのみ評定に加わるにすぎなかった。その他の評定衆も実際は問注所,政所,地方等の頭人としての実務が中心で,評定会議で重要事項を審議したわけではない。なお評定衆は建武政府においても見られるが,その実際の活動は不明である。
執筆者:五味 文彦
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鎌倉幕府において、重要政務・訴訟を、執権・連署とともに審議したメンバー。1225年(嘉禄1)に執権北条泰時(やすとき)によって、三浦義村(よしむら)、二階堂行盛(にかいどうゆきもり)ら11人が任命されたことに始まる。人数はおおむね15名程度で、北条氏一門・有力御家人(ごけにん)と文筆系職員とで構成されたが、のちしだいに北条氏一門の占める割合が高くなっていった。1249年(建長1)に訴訟専門機関として引付(ひきつけ)が設置されると、評定衆は引付に分属して訴訟審理にあたった。引付頭人(とうにん)は評定衆から選任された。また政所(まんどころ)執事、問注所(もんちゅうじょ)執事も評定衆から選任された。評定衆の名は室町幕府にも受け継がれたが、しだいに実質を失って衰退した。
朝廷においても、後嵯峨(ごさが)院政期に、上流廷臣と実務家中流廷臣とからなる評定衆が置かれ、以後5~10人ほどが任命された。この評定衆による評定は、院政の政務処理機関の一つとして、鎌倉時代を通じて独自の発達を遂げた。
[山村博也]
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鎌倉・室町両幕府の職員。鎌倉幕府では,執権北条泰時が,叔父の時房を連署としたのち,1225年(嘉禄元)11人を任命し,12月21日,評定始を行ったことに始まる。評定衆の行う評定は合議制にもとづいた幕府政治の最高議決機関で,これ以前の13人の宿老による合議体が理非決断の最終決定権をもたなかったのと大きく異なる。人数はふつう十数人で,北条氏一門,三浦氏・安達氏らの有力御家人,三善氏・二階堂氏らの文筆職員が就任し,引付(ひきつけ)設置後は引付頭人を兼任した。しかし得宗専制の進展にともなって,北条氏一門の評定衆が増加,有力御家人は減少した。さらに北条氏一門の者が若年で就任するようになると,合議体としての評定は形骸化し,得宗のもとでの寄合(よりあい)がこれにとってかわった。室町幕府にもおかれたが,形式的なものにとどまった。
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… 泰時は執権とならんで執権を補佐する連署を置き,六波羅にいた時房をこれに任じた。また評定衆を置き,中原師員(もろかず),三浦義村ら11名をこれに任じた。連署,評定衆の設置は,幕府政治が独裁から合議に転換したことを意味するものであり,ここに執権政治が確立したといえる。…
…次に西国の政務や裁判がある。文永(1264‐75)前後から諸機関の整備が進められ,1267年までに評定衆(ひようじようしゆう),78年までに引付(ひきつけ)ができ,97年までには五方引付が成立している。所務沙汰(しよむざた),雑務沙汰は,鎌倉末まで引付が担当していたが,はじめは探題の権限が強く,引付を中心とする裁判が確立したのは1300‐08年(正安2‐延慶1)ころであった。…
※「評定衆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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