天台宗の僧。諱(いみな)を慧鎮(えちん)、勅賜号を慈威(じい)という。近江(おうみ)(滋賀県)に生まれる。15歳で比叡(ひえい)山に入り、登壇受戒、18歳のとき初めて伝信興円(でんしんこうえん)(1262―1317)の談義を聴聞する。その後遁世行道(とんぜいぎょうどう)を志し、一時は禅門をくぐるが、1305年(嘉元3)ふたたび叡山に帰り、師興円とともに廃絶に瀕(ひん)していた円戒(円頓戒)の再興を図り、師の寂後もっぱらその宣揚に努める。元応寺(げんおうじ)を創(はじ)め、法勝(ほっしょう)寺修造大勧進となる。後醍醐(ごだいご)天皇の討幕計画に参画、1331年(元弘1)文観(もんかん)(1278―1357)らとともに北条氏を呪咀(じゅそ)、そのために六波羅(ろくはら)に捕らえられ、陸奥(むつ)に流された。建武(けんむ)政権の成立とともに帰京。足利尊氏(あしかがたかうじ)の帰依を受け、1334年(建武1)鎌倉宝戒(ほうかい)寺開山となる。尊氏と後醍醐天皇が離反してからは、北朝方と結んで活動するが、南朝方からも信任を得、しばしば両朝の間を斡旋(あっせん)した。後伏見(ごふしみ)、花園(はなぞの)、後醍醐、光明(こうみょう)、光厳(こうごん)天皇の戒師となったと伝える。弟子に光宗(こうそう)(1276―1350)、惟賢(いけん)(1289―1378)らがあり、円戒に関する多くの著述を遺(のこ)した。
[田中博美 2017年5月19日]
鎌倉末・南北朝時代の僧。字は慧鎮。近江国に生まれ,比叡山に入って興円に円戒(天台宗の戒)を学び,澄豪に穴太流の台密を受けた。諸寺を巡ったのち比叡山に帰り,1317年(文保1)興円の寂後,円戒の宣揚につとめた。後伏見上皇の帰依を受け,北白川に律院を開き(のちに元応寺),ついで後醍醐天皇に重んぜられて法勝寺,元応寺の住持となり,天台僧の中心として活動した。天皇の命を受けて,文観,忠円らとともに北条氏を呪詛したが,31年(元弘1)事が発覚して捕らえられ,陸奥に流罪にされた。33年建武新政の開始によって帰京し,法勝寺に住したが,足利尊氏の離反後は北朝方の僧として活動し,52年(正平7・文和1)には足利義詮の使として,後村上天皇のもとに赴いたりした。自伝の《閻浮受生大幸記》のほか円戒に関する著述が多く,円戒を地方に広めた功績は大きい。弟子に光宗,惟賢らがあり,没後,後光厳天皇から慈威の諡(おくりな)を贈られた。
執筆者:大隅 和雄
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(細川涼一)
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…しかし天皇の討幕の決意は固く,政権の奪回に懸命な持明院側から26年(嘉暦1)に病没した邦良皇太子のあとに量仁(かずひと)親王(後伏見上皇の皇子)が立つに及んで,再度の討幕計画が具体化した。天皇は意欲的に施政につとめ政権担当者としての権力を強化する一方,尊雲法親王(護良親王)を天台座主に据えたり,聖尋僧正や円観を重用することなどによって天台・真言両宗系の僧兵を掌握することにつとめた。たびたびの南都北嶺への行幸も同じ目的のためである。…
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