日本歴史地名大系 「北海道集治監十勝分監跡」の解説
北海道集治監十勝分監跡
ほつかいどうしゆうちかんとかちぶんかんあと
明治二八年(一八九五)、帯広市街南方に設置された監獄。十勝分監は明治二六年農業監獄としての建設が決定。まず明治二五年一〇月、北海道集治監釧路分監帯広外役所が下帯広村帯広川畔(晩成社西方三町)二千六〇〇坪の地に建てられた。外役所は監房二・病監一・工場三・炊所・合宿・医務所・介護部・第三課からなる一一棟で、職員・囚人一千三〇〇人を収容。同三七年内務大臣に提出された内務属職員坪井直彦の「十勝外役所及十勝分監新築ノ模様」には「十勝外役所ハ分監新築ノ為メ設ケタルモノニシテ帯広及音更ノ二ケ所ニ仮監ヲ設置シ帯広仮監ニハ囚徒八八二人ヲ拘禁シ音更仮監ニハ囚徒三〇一人ヲ拘禁ス、仮監ハ両所トモ粗雑ナル茅葺ニシテ構造甚ダゼイ弱且外柵ナクシテ検束充分ナラス看守長三名看守部長五名看守一五〇名ヲシテ之ニ充テ役業ハ建築及分監ニ通スル道路開削ヲ専ラニシ開庁ノ準備トシ囚徒用ノ備品ヲ製作セシメ器具ノ修補ヲ為サシム又山林ヲ採伐シテ炭焼ニ従事セシムルノミ」とある(「帯広市史」「十勝分監開庁前史」など)。分監の建設は囚人の労力だけで行われ、建設用材は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報