日本歴史地名大系 「北追分町・南追分町」の解説 北追分町・南追分町きたおいわけまち・みなみおいわけまち 滋賀県:大津市大津町北追分町・南追分町[現在地名]大津市追分町(おいわけちよう)・横木(よこぎ)二丁目下火打(しもひうち)町の西にある両側町。寛保二年町絵図では追分町とみえるが、「輿地志略」では北追分町・南追分町とある。地名は分岐する意の追分であろうが、当地には京都の仏師安阿弥が東国の僧の依頼で阿弥陀仏を彫り、追分まで送ったものの仏像を手離すのが悲しく別れを惜しんでいると、仏像が二体になり、安阿弥は一体を背負って帰ることができた。これにより「負分け」の地名が生じたという(雍州府志)。天正二〇年(一五九二)一〇月、豊臣秀吉が逢坂(おうさか)山近くに一里塚を築いた際、「追分町」から人足を出している(園城寺旧記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by