人形浄瑠璃。時代物。近松門左衛門作。大坂竹本座初演。下之巻に〈ゆたか成年は子のとし〉とあり,1559年(永禄2)没法眼元信の百五十年忌に当たるところから,1708年(宝永5)子歳上演と推定されている。3段曲。狩野元信が土佐光信の婿となり,絵所の預りとなった史実によって仕立てたお家騒動物。元信をめぐり,勅勘の身の土佐光信の娘遠山(太夫名,のちにやり手みや)と,主君六角頼賢の娘銀杏の前との恋のからみと,敵役不破道犬・伴左衛門親子,絵師雲谷ら悪人による受難を縦筋として,それに名古屋山三・不破伴左衛門の〈鞘当(さやあて)〉を織り込んだ作。加えて中巻に大津絵師吃の又平とその妻の挿話を設定する。本作の《傾城反魂香》の題名が狂言外題的なことや,遊女葛城をめぐる不破・名古屋劇の歌舞伎的世界に注目するとき,この年2月に江戸で急逝した名優初世中村七三郎の追善当込みと理解できる。七三郎は京に上り《傾城浅間嶽》で大当りをとり,この作は大坂でも人気を得た。この名作の構成,展開,人物設定を骨子として,それに彼の当り作〈名古屋山三〉〈行平〉,得意芸の能(本間物)の世界を織り込んで構成している。〈反魂香〉の趣向も〈浅間物〉の系譜の上で理解できる。加えて文飾として絵師の追善にふさわしく大津絵模様で彩る多彩な作品であった。本作は近松が歌舞伎作者としての経験を生かし,巧みに歌舞伎味を導入した作品としての特色を有する。そうした構成と趣向の面でよく作られているだけでなく,吃又(どもまた)の人間像形成でとりわけ名高く,歌舞伎では1719年(享保4)大坂嵐座(角の芝居)で上演されたとき,座本3世嵐三右衛門が又平役を演じ,翌年には《浮世又平筆勢鑑》の名で演じられ主人公扱いになるなど又平像が表面に押し出され,今に至るも《吃又》は演じ続けられている。庶民のそして不具の身の,その哀感と懸命の生き方が,時代を超えて共感され続けた結果であろう。
執筆者:信多 純一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)。時代物。3段。近松門左衛門作。1708年(宝永5)8月(推定)大坂・竹本座初演。絵師狩野元信(かのうもとのぶ)の一五〇年忌を当て込んだ作といわれ、元信が土佐将監光信(とさのしょうげんみつのぶ)の女婿(じょせい)になり絵所(えどころ)を開いた事績に、名古屋山三(さんざ)や吃(ども)の又平の伝説などを取り混ぜたもの。題名の由来は、漢の武帝が名香をたいて亡き李(り)夫人のおもかげを見たという反魂香の故事に基づき、将監の娘である傾城遠山(とおやま)が元信と契りながら六角(ろっかく)左京太夫の娘銀杏の前(いちょうのまえ)に恋を譲って死に、その霊魂が元信の眼前へ姿を現すという話(中・下の巻)にあるが、有名なのは浄瑠璃でも歌舞伎(かぶき)でも上の巻「将監閑居」で、俗に「吃又(どもまた)」とよばれ、独立して多く上演される。
将監の弟子浮世又平がことばが不自由なため望みを失い、女房とともに死を決して形身の自画像を石の手水鉢(ちょうずばち)に描くと、魂がこもって画像が裏へ抜け出る奇跡がおこり、功によって土佐の名字を許されるという筋で、質実で口無調法な又平と、男勝りで雄弁な女房(歌舞伎では役名おとく)の対照が見どころ。従来、後世に改作した『名筆傾城鑑(めいひつけいせいかがみ)』(1752)が多く行われてきたが、近年はもっぱら原作に忠実な台本によって上演されている。
[松井俊諭]
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
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