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近松門左衛門 ちかまつ もんざえもん

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美術人名辞典の解説

近松門左衛門

江戸中期の歌舞伎狂言浄瑠璃作者。出生地は不明。幼時より京都で育ち、一時近江の近松寺に遊び、近松の姓はこれに因んだものといわれている。名は信盛、通称を平馬、号は平安堂・巣林子・不移山人等。竹本義太夫と提携し多くの浄瑠璃を発表。また坂田藤十郎のために脚本を書く。代表作は『曾根崎心中』『女殺油地獄』等。享保9年(1725)歿、72才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

近松門左衛門

浄瑠璃、歌舞伎作者。しょうゆ屋の手代・徳兵衛と遊女・お初の心中を描いた「曽根崎心中」(1703年初演)は、江戸時代の庶民の世界を扱った「世話浄瑠璃」の第一作とされ、現在でも文楽の人気演目。

(2008-07-12 朝日新聞 夕刊 2社会)

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デジタル大辞泉の解説

ちかまつ‐もんざえもん〔‐モンザヱモン〕【近松門左衛門】

[1653~1724]江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎作者。越前の人。本名、杉森信盛。別号、巣林子(そうりんし)。坂田藤十郎のために脚本を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招いた。また、竹本義太夫のために時代物世話物の浄瑠璃を書き、義太夫節の確立に協力した。代表作「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」「曽根崎心中」「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」「女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)」「傾城仏の原」など。
[補説]忌日となる陰暦11月22日は、近松忌のほか巣林子忌、巣林忌ともいう。

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百科事典マイペディアの解説

近松門左衛門【ちかまつもんざえもん】

江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者。本名杉森信盛。別号平安堂・巣林子など。父が浪人したため,京に出て公家一条家などに仕え,のち近江(おうみ)近松(ごんしょう)寺に遊学したともいう。(1653-1724)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

近松門左衛門 ちかまつ-もんざえもん

1653-1725* 江戸時代前期-中期の浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎作者。
承応(じょうおう)2年生まれ。京都の宇治加賀掾(かがのじょう)のもとで修業。竹本義太夫(ぎだゆう)とくみ貞享(じょうきょう)2年「出世景清」で名声を博す。歌舞伎では坂田藤十郎と提携し,「傾城(けいせい)仏の原」などの狂言をかく。元禄(げんろく)16年竹本義太夫のためにかいた「曾根崎心中」で世話浄瑠璃を確立し,宝永2年大坂竹本座の座付作者となった。享保(きょうほう)9年11月22日死去。72歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。姓は杉森。名は信盛。通称は平馬。別号に巣林子,平安堂など。代表作はほかに「国性爺合戦」「心中天網島」「女殺油地獄」など。
【格言など】虚にして虚にあらず,実にして実にあらず,この間に慰(なぐさみ)がある(穂積以貫難波土産」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

近松門左衛門

没年:享保9.11.22(1725.1.6)
生年:承応2(1653)
元禄期を代表する浄瑠璃作者,歌舞伎狂言作者。本名杉森信盛。幼名次郎吉。号平安堂,巣林子,不移山人。越前福井に生まれ,越前藩主松平忠昌,その子吉品に仕えた信義とその妻忠昌侍医岡本為竹法眼受慶の娘喜里の間の第2子。明暦1(1655)年,3歳のとき父の越前吉江(鯖江市)勤仕に従い移り,寛文初年(1660年代)父の浪人にともない一家あげて京に移り住む。信盛は京の公家に仕え,一条昭良,阿野家,正親町家などを転々としたもよう。この間有職故実を学び古典の教養を身につけた。元来杉森家は一家皆風雅を楽しみ,山岡元隣の俳文『宝蔵』(1671)追加発句に,祖父,父,母,弟などと共に19歳の信盛の句も載る。31歳天和3(1683)年,「世継曾我」を宇治加賀掾のために執筆し名を轟かすが,それ以前に宇治座にあって無名の下積み時代があった。修業時代の逸話として,都万太夫座の道具直しを勤めたとか,堺の夷(戎)島で太平記読みの原栄宅と組んで『徒然草』の講釈をしたという話が残る。 貞享2(1685)年加賀掾が大坂に下り新興の竹本義太夫と対抗して興行したが,このとき近松は義太夫のために初めて「出世景清」を執筆した。以後ふたりの関係は深まり,京に在住のまま大坂竹本座にも作品を書き与えた。 一方貞享3(1686)年ごろから歌舞伎作者としても著名であった。元禄6(1693)年の「仏母摩耶山開帳」が現存の一番古い作品であるが,初期作があるはずである。元禄年間は坂田藤十郎らと組んでの歌舞伎作劇に力を入れ,「傾城仏の原」(1669),「傾城壬生大念仏」(1702)といった傑作を生む。その期の浄瑠璃にも歌舞伎色を巧みに盛り込んだ作,たとえば「日本西王母」「下関猫魔達」などがある。その経験が元禄16年世話物「曾根崎心中」に開花した。この作の大当たりで宝永2(1705)年には京から大坂に移り住み,竹本座の座付作者としての地位を得る。藤十郎の病気とその死(1709)とともに歌舞伎については執筆の筆を絶ち,元祖竹田出雲座本下の新竹本座の浄瑠璃制作に専念し,多くの評判作を世に問うた。正徳4(1714)年,盟友義太夫が没し,竹本座は危機を迎えたが竹本政太夫を盛り立て,出雲と計りその立て直しを行う。正徳5年の「国性爺合戦」は17カ月におよぶ長期上演をよび竹本座を安泰させた。その後時代物「平家女護島」,世話物「心中天の網島」などの名作を発表するが,「関八州繋馬」(1724)を最後に,享保9(1724)年3月の大坂大火後の避難地天満の仮住居で72歳の生涯を閉じた。 確定作だけで90編余の浄瑠璃(うち世話物24編),歌舞伎30編の作品を残している。その特色は構成と作文の妙にある。加えて条理と情の葛藤といった劇術で舞台上に心理のあやを視覚化し,観客を劇世界に自在に陶酔させた。近松の「虚実皮膜論」として知られる芸論が,穂積以貫によって『難波土産』(1738)の冒頭に書きとめられている。作者の氏神の称を生前すでに得,「それぞ辞世去程に扨もそののちに残る桜が花し匂はば」と後世に己が作品の花が匂い続けることを希求する辞世を遺して逝く。近時発見された歌舞伎作者で道化形の役者でもあった金子吉左衛門一高の日記に,元禄半ばのこの大文豪の日常生活が生き生きと描かれている。<著作>『近松全集』全17巻<参考文献>森修『近松門左衛門』,祐田善雄『浄瑠璃史論考』,「金子吉左衛門日記」(鳥越文蔵『歌舞伎の狂言』)

(信多純一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ちかまつもんざえもん【近松門左衛門】

1653‐1724(承応2‐享保9)
浄瑠璃作者。歌舞伎作者。本名杉森信盛。幼名次郎吉,長じて通称平馬。ほかに平安堂,巣林子(そうりんし),不移山人などの号がある。近松は父の杉森信義が越前吉江藩の幼主に仕えて福井に在住していたとき次男として生まれたらしいが,父が浪人したため15~19歳のころに一家とともに京都に移住し,やがて後水尾帝の弟一条恵観(えかん)に仕えた。また正親町(おおぎまち)公通らの公家に仕えたともいう。この間,近松は和漢の古典的教養を身に付けたと思われるが,人形浄瑠璃の世界に接近したのもこの時期であった。

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大辞林 第三版の解説

ちかまつもんざえもん【近松門左衛門】

1653~1724) 江戸前・中期の浄瑠璃・歌舞伎作者。本名,杉森信盛。別号,平安堂・巣林子。越前の人。浄瑠璃で竹本義太夫と,歌舞伎で坂田藤十郎と協力,数々の傑作を生んだ。最新の事件を劇化した際物きわもの「曽根崎心中」の成功で世話浄瑠璃をもっぱらとし,義理人情の葛藤かつとうにより生じる悲劇を多く著した。浄瑠璃「出世景清」「国性爺こくせんや合戦」「心中天網島」「女殺油地獄」,歌舞伎「けいせい仏の原」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

近松門左衛門
ちかまつもんざえもん

[生]承応2(1653).越前,吉江?
[没]享保9(1724).11.22. 大坂
江戸時代前期の浄瑠璃歌舞伎狂言の作者。本名杉森作左衛門信盛。号は巣林子,平安堂。越前吉江藩士であった父が浪人したのを機に上京,堂上貴族の一条恵観,正親町公通らに仕えた。宇治加賀掾門下を経て,貞享2 (1685) 年竹本義太夫のために『出世景清』を書き,以後義太夫と組んで活躍。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

近松門左衛門
ちかまつもんざえもん
(1653―1724)

江戸前期の浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎(かぶき)作者。本名杉森信盛(のぶもり)。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)、不移(ふい)山人。承応(じょうおう)2年越前(えちぜん)吉江藩士杉森信義(のぶよし)の二男として福井に生まれたが、父が浪人となったため、近松15、16歳のころ家族とともに京都に移り、公家(くげ)の一条恵観(えかん)家(正親町(おおぎまち)家、阿野(あの)家とも)に仕えた。20歳のとき主人の死にあったのを機に主家を辞した。その後作者になるまでの消息は明らかでないが、一時近江(おうみ)国(滋賀県)の三井寺高観音(みいでらたかかんのん)の近松(ごんしょう)寺に遊学したことがあり、筆名の「近松門左衛門」はその縁でつけたという説もあるが、真偽は不明である。その時期に和漢の古典を学び、仏教に関する知識も習得したものと思われる。そして1677年(延宝5)25歳ごろまでには、京都の宇治加賀掾(うじかがのじょう)のもとで浄瑠璃作者となったらしい。武士の出の近松が、賤視(せんし)されていた芸能の世界へ身を投じたのは、当時としては思いきった転身であったが、結果的には幸いした。以来72歳で没するまでの四十数年間に、歌舞伎脚本30余編、時代浄瑠璃80余編、世話浄瑠璃24編を書き、日本最大の劇詩人とたたえられる輝かしい業績を残した。その作家活動は、だいたい四つの時期に分けられる。[山本二郎]

第1期

浄瑠璃作者になってから1692年(元禄5)、近松40歳ごろに至るいわば習作時代である。加賀掾のために書いたと推定される『以呂波(いろは)物語』『赤染衛門栄花物語(あかぞめえもんえいがものがたり)』『世継曽我(よつぎそが)』など十数編の古浄瑠璃、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)のために書いた『出世景清(しゅっせかげきよ)』『天智(てんじ)天皇』『蝉丸(せみまる)』などがある。なかでも1685年(貞享2)の『出世景清』は従来の浄瑠璃に新風を吹き込み、浄瑠璃の歴史を新旧に二分するほどの画期的な作で、それ以前を古浄瑠璃、以後を新浄瑠璃と称するようになった。しかし、このころの近松は、経済的には都万太夫(みやこまんだゆう)座の道具直しや、堺(さかい)で講釈師をして生計をたてるような厳しい生活だった。[山本二郎]

第2期

1693年41歳から1703年51歳ごろまでの、おもに歌舞伎狂言を書いた時代である。近松は貞享(じょうきょう)(1684~88)初年ごろから京都の都万太夫座で歌舞伎作者の修業をしたと伝えられるが、1693年ごろからおもに名優坂田藤十郎(とうじゅうろう)のために歌舞伎狂言を書いた。『仏母摩耶山開帳(ぶつもまやさんかいちょう)』『夕霧七年忌』『大名なぐさみ曽我』『一心二河白道(いっしんにがびゃくどう)』『傾城仏の原(けいせいほとけのはら)』『傾城壬生大念仏(みぶだいねんぶつ)』などを書き下ろし、元禄(げんろく)歌舞伎隆盛の基礎をつくった。それらはだいたい御家騒動の世界を扱い、神仏の霊験譚(れいげんたん)を取り入れてはいるが、中心は廓(くるわ)の場面におけるやつし事、傾城事の世話的な場景を写実的に描いたものであった。こうした、浄瑠璃よりはるかに現代性の濃い歌舞伎での経験は、世話浄瑠璃を創始するうえに大いに役だった。[山本二郎]

第3期

世話浄瑠璃中心の時代で、最初の世話浄瑠璃『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』を執筆した1703年51歳から、義太夫(筑後掾(ちくごのじょう))が没した14年(正徳4)62歳ごろまで。曽根崎の心中は事件直後ほうぼうの歌舞伎で上演されたが、近松はそれを人形浄瑠璃に持ち込み、世話浄瑠璃のジャンルを創始した。この作の興行は大成功で、竹本座はこれまでの負債を一挙に返済することができた。これを機にやがて筑後掾は座本(ざもと)の位置を竹田出雲(いずも)に譲ったが、引き続き太夫として活躍、近松は竹本座の座付作者となって浄瑠璃に専念することになった。そしてこの期には『堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)』『五十年忌歌念仏(うたねぶつ)』『心中重井筒(かさねいづつ)』『心中万年草(まんねんそう)』『丹波(たんば)与作待夜(まつよ)の小室節(こむろぶし)』『冥途(めいど)の飛脚(ひきゃく)』『夕霧阿波鳴渡(あわのなると)』などの世話浄瑠璃16編と、『用明天王職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』『傾城反魂香(はんごんこう)』『碁盤太平記』『嫗山姥(こもちやまんば)』などの時代浄瑠璃がつくられた。世話浄瑠璃を確立したことは、その後の浄瑠璃を複雑多彩なものにすることになったのでその意義は大きい。[山本二郎]

第4期

晩年の円熟大成した時代で、竹本政太夫(まさたゆう)(2代目義太夫)をもり立てて健筆を振るった。1714年に筑後掾が没して竹本座は危機を迎えたが、翌年座本出雲の意見を取り入れて書いた『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』が、3年越し17か月の大当りをとり、座の経営は安泰した。その後近松はいよいよ円熟した筆で、時代浄瑠璃では『日本振袖始(にほんふりそではじめ)』『平家女護島(にょごのしま)』『信州川中島合戦』など、世話浄瑠璃では『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』『山崎与次兵衛寿(やまざきよじべえねびき)の門松(かどまつ)』『博多小女郎浪枕(はかたこじょろうなみまくら)』『心中天網島(てんのあみじま)』『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』『心中宵庚申(よいごうしん)』などの名作を残した。そして24年(享保9)正月に上演された『関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)』を絶筆として、同年11月22日72歳で没した。尼崎(あまがさき)市の広済寺(こうさいじ)に墓があり、また近松記念館が設けられている。なお、大阪市中央区法妙寺(妻の実家の菩提(ぼだい)寺)跡にも墓だけ残っている。
 近松は古浄瑠璃を当世風に改めて浄瑠璃を大成させたが、時代浄瑠璃では本来の夢幻性のなかに浪漫(ろうまん)的な要素と現実的な要素を巧みに調和させ、世話浄瑠璃では義理と人情との相克のうちに生きる庶民の姿を、生き生きとしかも愛情をもって描き、人々の心を動かした。それらの作の多くは不変の人間性を深く追求しているため、現代的生命をもち続けているものが少なくない。またその構想、趣向、文章が後世の戯曲に大きい影響を与えていることも、彼の偉大さを物語るものであろう。ただ『冥途の飛脚』『心中天網島』など上演度の高い作品は、原作のままの上演は初演だけで、その後は後人の入れ事の多い改作物が舞台に上(あが)っていた。これは近松以後の時代には演劇性に富んだはでな作が多くなり、それに対応して改作が行われたものと思われる。第二次世界大戦後は近松再検討の声がおこって原作による上演が増えてきている。なお、穂積以貫(ほづみこれつら)の『難波土産(なにわみやげ)』にみられる「芸は虚(うそ)と実(じつ)との皮膜(ひにく)の間にあり」という近松の芸術観は、彼の演劇に対する態度を明らかにしたことばとして有名である。[山本二郎]
『『近松全集』全12巻(1925~28・大阪朝日新聞社) ▽『近松歌舞伎狂言集』全2巻(1927・六合館) ▽『日本古典文学大系 49・50 近松浄瑠璃集 上下』(1958、59・岩波書店) ▽『日本古典文学全集 43・44 近松門左衛門集』(1972、75・小学館) ▽守随憲治訳注『近松世話物集』(1976・旺文社) ▽広末保著『近松序説』(1957・未来社) ▽河竹繁俊著『近松門左衛門』(1958・吉川弘文館) ▽『国語国文学研究史大成 10 近松』(1964・三省堂) ▽重友毅著『近松の研究』(1972・文理書院) ▽諏訪春雄著『近松世話浄瑠璃の研究』(1974・笠間書院)』

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世界大百科事典内の近松門左衛門の言及

【赤松満祐】より

…ここに赤松惣領家は断絶し領国は山名一族に与えられた。嘉吉の乱【鳥居 和之】
[伝承と作品化]
 赤松満祐の将軍足利義教弑逆事件は,その後もながく語り伝えられ,これを素材とする文芸作品も二,三にとどまらないが,なかでもとくに名高いのは1705年(宝永2)初演とみられる近松門左衛門作の浄瑠璃《雪女五枚羽子板(ゆきおんなごまいはごいた)》で,いちはやく近松の時代物の三傑作の一つに数えられている。作中,満祐は〈赤沼入道〉,満祐の子教康は〈赤沼判官〉と名づけられており,ひたすらに極悪非道の父子として描かれている。…

【阿波鳴門物】より

… 最初は1712年(正徳2)春,大坂竹本座初演の《夕霧阿波鳴渡》。近松門左衛門作。世話物。…

【生玉心中】より

…角書〈嘉平次おさが〉。近松門左衛門作。1715年(正徳5)5月大坂竹本座初演。…

【女殺油地獄】より

…世話物3巻。近松門左衛門作。1721年(享保6)竹本座初演。…

【歌舞伎】より

…また富永平兵衛(生没年不詳。延宝~元禄ごろの歌舞伎作者)や近松門左衛門によって,狂言作者が独立の職掌になったこと,役者評判記の記事が容色中心から技芸評へと転換したことなどが,この時期に演劇としての飛躍的な発達を遂げたことを物語っている。
[人形浄瑠璃との交流]
 享保(1716‐36)から宝暦(1751‐64)にかけて,歌舞伎は沈滞期を迎えた。…

【上方文学】より

…芭蕉によってはじめて俳諧も高い芸術性が与えられた。浄瑠璃では,近松門左衛門のそれに以前の古浄瑠璃には見られなかった〈血の通った人間〉が描かれるようになる。彼の人間,社会への認識の深さがそれを裏づけている。…

【関八州繫馬】より

…5段。近松門左衛門作。1724年(享保9)1月大坂竹本座初演。…

【義太夫節】より

…義太夫は井上播磨掾の系統をひき,宇治加賀掾の技法・曲節を摂取して,人間を語る近世的な浄瑠璃を確立した。1705年(宝永2),座付作者に近松門左衛門を迎えたことも,日本の芸術史上,意義深いものがあった。竹本義太夫の後継者となった竹本政太夫(播磨少掾)によって,人間,とくに情を深く語るという義太夫節の特色がいっそう明確になった。…

【虚実】より

…歌論でいう〈花〉は,外面的修飾や理想化されたイメージを意味し,〈実〉は内面的真情やありのままの事実を意味するが,その究極的理想は花実相兼である。その伝統を継ぐ虚実相兼論としては,たとえば近松門左衛門のいわゆる虚実皮膜の論,〈芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。(略)虚にして虚にあらず,実にして実にあらず。…

【傾城阿波の鳴門】より

…三番続き(3幕)。近松門左衛門作。1695年(元禄8)3月京の早雲座で初演。…

【傾城反魂香】より

…時代物。近松門左衛門作。大坂竹本座初演。…

【傾城仏の原】より

…3幕。近松門左衛門作。1699年(元禄12)正月京の都万太夫座上演。…

【傾城壬生大念仏】より

…三番続き。近松門左衛門作。1702年(元禄15)正月京の都万太夫座上演。…

【国性爺合戦】より

…5段。近松門左衛門作。大坂竹本座初演。…

【嫗山姥】より

…通称《しゃべり山姥》。近松門左衛門作。1712年(正徳2)7月大坂竹本座初演。…

【薩摩歌】より

…角書〈源五兵衛おまん〉。近松門左衛門作。《外題年鑑(明和版)》は1704年(宝永1)正月大坂竹本座初演とするが不確実。…

【出世景清】より

…時代物。近松門左衛門作。大坂竹本座初演。…

【浄瑠璃】より

…初めは素朴な物語的音楽であり,伴奏には扇拍子や琵琶,後には三味線が使用された。操り人形も加わるにいたって独特の語り物による楽劇形態を完成し,ことに中世諸芸能の統合のうえに,近松門左衛門の詞章,義太夫節の曲節につれて舞台の人形が操られるとき,浄瑠璃は近世的・庶民的性格をもつ音楽・文学・演劇の融合芸能として登場した。近松門左衛門の活躍時代において文学性が最も高くなり,その後人形舞台の発達につれて舞台本位の演劇性を高度にもつにいたる。…

【心中重井筒】より

…3巻。近松門左衛門作。1707年(宝永4)末,大坂竹本座初演。…

【信州川中島合戦】より

…人形浄瑠璃。近松門左衛門の最晩年期を代表する作品の一つ。1721年(享保6)8月大坂竹本座初演。…

【心中天の網島】より

…3巻。近松門左衛門作。1720年(享保5)大坂竹本座初演。…

【心中万年草】より

…3巻。近松門左衛門作。1710年(宝永7)4月大坂竹本座初演。…

【心中物】より

…これらの心中事件は同時に歌謡にもうたわれ,《松の葉》(1703),《松の落葉》(1710)などに収められている。浄瑠璃では,元禄年代の末に上(揚)巻助六の情死を扱った《千日寺心中》などの作品が生まれていたが,1703年に近松門左衛門の世話浄瑠璃の初作《曾根崎心中》が上演されると,浄瑠璃だけではなく,歌舞伎でも歌謡でも空前の心中物ブームが訪れた。近松自身も《心中二枚絵草紙》《卯月紅葉》《心中重井筒(かさねいづつ)》《心中万年草》とたてつづけに心中物の秀作を発表,ライバル関係にあった紀海音も《難波橋心中》《梅田心中》《心中二ツ腹帯》などの作を発表した。…

【心中刃は氷の朔日】より

…世話物。3巻近松門左衛門作。1709年(宝永6)大坂竹本座初演。…

【心中宵庚申】より

…3巻。近松門左衛門作。1722年(享保7)4月22日大坂竹本座初演。…

【曾根崎心中】より

…人形浄瑠璃。近松門左衛門作。世話物。…

【大経師昔暦】より

…3巻。近松門左衛門作。1715年(正徳5)春ごろ大坂竹本座初演。…

【丹波与作待夜の小室節】より

…3巻。近松門左衛門作。1707年(宝永4)大坂竹本座初演。…

【鳥辺山】より

…鳥辺山(鳥辺野)で心中する男女,源五兵衛・おまんを扱った俗謡が近世初期に流行したが,この2人を主人公とする浄瑠璃や歌舞伎狂言(おまん源五兵衛物),あるいはこの状況を用いた歌舞伎や邦楽が作られている。(1)地歌 近松門左衛門作詞,湖出金四郎作曲,岡崎検校(1684‐1753)改調。1706年(宝永3)正月京都の都万太夫座および同年夏大坂の岩井座で上演された歌舞伎狂言《鳥辺山心中》の道行に用いられた曲を岡崎検校が地歌に移したとされる。…

【長町女腹切】より

…3巻。近松門左衛門作。1712年(正徳2)秋大坂竹本座初演。…

【難波土産】より

…《国性爺合戦(こくせんやかつせん)》《蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)》など9編の浄瑠璃の語釈を記し,必要に応じて文句に対する批評を述べたもの。しかし,本書の価値は発端の部分に収められた近松門左衛門聞書にある。〈芸といふものは実と虚(うそ)との皮膜(ひにく)の間にあるもの也。…

【日本振袖始】より

…5段。近松門左衛門作。1718年(享保3)2月,大坂竹本座初演。…

【人形浄瑠璃】より

…それは語り物とはいえ,ドラマの本質を備えた戯曲を得てはじめて真の達成をみるべきものである。 85年近松門左衛門が義太夫の門出を祝って執筆した《出世景清》は,孤独の勇者景清と彼を愛するゆえに裏切りを犯す阿古屋との深刻な葛藤を扱い,義太夫節の出発点にふさわしい,近世悲劇(広末保《近松序説》参照)の本質を備えた作品であった。1703年(元禄16)近松・義太夫コンビによる最初の世話浄瑠璃《曾根崎心中》が上演され,人形浄瑠璃の現代劇化はいっそう推し進められた。…

【博多小女郎波枕】より

…3巻。近松門左衛門作。1718年(享保3)11月20日,大坂竹本座初演。…

【双生隅田川】より

…5段。近松門左衛門作。1720年(享保5)8月大坂竹本座初演。…

【文耕堂】より

…享保(1716‐36)ごろの大坂竹本座の作者で,初めは本名の松田和吉で書いたが,1730年2月の《三浦大助紅梅靮(みうらのおおすけこうばいたづな)》(竹本座)からは文耕堂の署名となる。作品は1722年9月の《仏御前扇車(ほとけごぜんおうぎぐるま)》が古く,これは翌年の《大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)》とともに,添削者に近松門左衛門の名前があることから,近松に師事していたといわれている。この後30年までは浄瑠璃作品はなく,京都で歌舞伎作者松田和吉として《唐錦妹背褥(からにしきいもせのしとね)》《大和縅男鑑(やまとおどしおとこかがみ)》を書いた。…

【平家女護島】より

…通称《俊寛》。近松門左衛門作。1719年(享保4)8月大坂竹本座初演。…

【堀川波鼓】より

…3巻。近松門左衛門作。1711年(正徳1)正月以前大坂竹本座初演。…

【冥途の飛脚】より

…3巻。近松門左衛門作。1711年(正徳1)3月《新いろは物語》の切浄瑠璃として初演されたという(《外題年鑑》)が確証はない。…

【山崎与次兵衛寿の門松】より

…略称《寿の門松》。近松門左衛門作。1718年(享保3)正月大坂竹本座初演。…

【鑓の権三重帷子】より

…最初の外題は《好色橋弁慶》。近松門左衛門作。1717年(享保2)8月大坂竹本座初演。…

【用明天王職人鑑】より

時代物近松門左衛門作。1705年(宝永2)11月大坂竹本座初演。…

※「近松門左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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