北革屋町二丁目(読み)きたかわやまちにちようめ

日本歴史地名大系 「北革屋町二丁目」の解説

北革屋町二丁目
きたかわやまちにちようめ

[現在地名]東区船越ふなこし町一―二丁目

北革屋町一丁目の西に延びる両側町。もと北革屋町一丁目と一町であった(→北革屋町一丁目。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数三一・役数四二役で、うち年寄分一役が無役。年寄は西川道長。安政三年(一八五六)水帳(大阪大学蔵)では屋敷数二九でほかは同様。宗旨組合は北革屋町一丁目に同じ。「難波鶴」は医師一・道化諸芸二を記し、延享版「難波丸綱目」によれば島屋平四郎は加賀能登越中但馬播磨の国問屋で、北国問屋・北国布問屋。同書に旗本石丸家用聞・花火線香師・伊勢内宮御師宿各一が載る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む