日本歴史地名大系 「北高瀬村」の解説 北高瀬村きたたかせむら 大分県:日田市北高瀬村[現在地名]日田市高瀬竹田(たけだ)村の南西、三隈(みくま)川(筑後川)左岸に位置する。同川支流の高瀬川流域の高瀬地区の北部を占めるが、南高瀬村・西高瀬村などと入組み、地境はあきらかではない。正和二年(一三一三)銘の板碑がある松場(まつば)には高瀬に居城した高瀬永俊(高瀬氏の祖)が父の廟所とした永平(いひじ)寺の跡地がある。永俊は保元二年(一一五七)家督争いで三牟田盛季に殺された日田郡司職の大蔵永平の子で、「豊西記」、「財津家譜」(財津家文書)によれば、永俊の兄永宗を助けて郎従の高瀬某が仇を討ったという。天文一五年(一五四六)大友義鑑が日田郡司職日田親将を追い、日田を直轄地として置いた八奉行のうちに高瀬鑑俊がおり(「日田記」などでは高瀬鑑利とする)、親将に好意を寄せたとして高瀬城で討死したが、天正一七年(一五八九)の指出検地では高瀬下野守ら一〇名の所持分が記載されるという(豊西記)。「日田造領記」などによると塁は垂水(たるみ)と徳行(とくぎよう)の間、天満宮の近くという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by