日本歴史地名大系 「竹田村」の解説
竹田村
たけだむら
- 京都市:伏見区
- 竹田村
北は
「京都府地誌」は当村について「往古真幡寸庄ニ属ス、又竹田庄ト称シ一村独立ス、保元中真幡寸庄ヲ竹田ニ合併シ竹田村ト称ス」と記す。
当村域には一一世紀末、白河天皇が退位後の後院として営んだ
また当村は街道筋に位置し、村域内を鴨川が貫流していることもあって、古来、水陸交通の結節点、交通の要衝であった。京への出入口として戦場となることも多く、「太平記」(三月十二日合戦事)に「未戦前ニ、楯ヲ捨テ旗ヲ引テ、作道ヲ北ヘ東寺ヲ指テ引モ有、竹田川原ヲ上リニ、法性寺大路ヘ落モアリ」、同書(足利殿着御篠村則国人馳参事)に「サテ官軍ハ五月七日京中ニ寄テ、合戦可有ト被定ケレバ、篠村・八幡・山崎ノ先陣ノ勢、宵ヨリ陣ヲ取寄テ、西ハ梅津・桂里、南ハ竹田・伏見ニ篝ヲ焼」などと記される。
竹田村
たけだむら
松山城下の北西にあり、西は最上川を境に
竹田村
たけだむら
慶長六年(一六〇一)因幡国若桜藩領、元和三年(一六一七)幕府領、寛永四年(一六二七)旗本宮城領となる。
竹田村
たけだむら
竹田村
たけだむら
- 大分県:日田市
- 竹田村
竹田村
たけたむら
竹田村
たけだむら
竹田村
たけだむら
竹田村
たけだむら
竹田村
たけだむら
竹田村
たけだむら
竹田村
たけだむら
飛鳥川東岸、
寛永一七年(一六四〇)に
竹田村
たけだむら
竹田村
たけだむら
竹田村
たけだむら
竹田村
たけだむら
竹田村
たけだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報