高瀬村(読み)たかせむら

日本歴史地名大系 「高瀬村」の解説

高瀬村
たかせむら

[現在地名]神郷町高瀬

油野ゆの村の北に位置し、北から西は高畑たかはた(七七六メートル)たか(七一五メートル)妙見みようけん(七二四・七メートル)などの山嶺を挟んで伯耆国。集落は高瀬川流域および周辺の木谷きたに大原おおはら中村なかむら長久ながひさ柳原やなぎはら梅田うめだ新田しんでん野原のばら野原鷲尾のばらわしおなどに散在。タタラや鉄穴かんな流しに関連する地名が多く、タタラ関係一一・鍛冶屋関係七・鉄穴関係九の地名がある(神郷町史)

中世には東のかま村などとともに新見庄に含まれ、文永八年(一二七一)二月二八日の新見庄領家方奥村分正検田取帳案(東寺百合文書)などの関連史料に、当地の本郷ほんごう・木谷・大原・中原なかはら・野・江原えばら石堂いしどう・梅田・亀尾かめのおなどの地名がみえ、建武元年(一三三四)の新見庄東方地頭方検見并納帳(同文書)に高瀬村内の仏神田として八幡神田・国主神田・石堂免・疫神田・大仙神田(計八反余)が書上げられている。また同帳に載る高瀬村銭弁并損亡検見帳によると、野三郎太夫など計一〇人分の定田は一〇町八反余(ほかに免田一町一反余)、この時の検見で四町余が損田として認められ、得田六町八反余に対して六八貫八六〇文を納めている。寛正三年(一四六二)一一月一四日の新見庄代官祐清注進状、同月二八日の東寺書下案、一二月一三日の祐清書状(いずれも同文書)などによると、この年高瀬村では損免要求をし、領主京都東寺は当初三分の一減免まで認めたが、村では三分の二減免を主張、結局、未進分の年貢徴収を円滑に行うためにも引下げが必要との祐清の判断で、二分の一減免を受入れ、翌年三月東寺もこれを認めた(最勝光院方評定引付)


高瀬村
たかせむら

[現在地名]富岡市上高瀬かみたかせ中高瀬なかたかせ下高瀬しもたかせ

かぶら川が蛇行しつつ西境から北境を流れ、東は内匠たくみ村、南は後箇ごか村・岡本おかもと村と接する。「和名抄」湍上せのかみ郷に比定される。天正七年(一五七九)二月八日の貫前ぬきさき神社の指出注文(小幡文書)によると、小幡氏に対する夫免・無年貢地九貫五〇〇文の同社領が「高瀬之郷之内」にあった。寛文郷帳では小幡藩領・越後新発田藩領・丹波園部藩領の三給、田方六五六石七斗余・畑方一千七九三石二斗余。元禄郷帳では小幡藩領・旗本松平仁十郎領・同岩出領・同中沢領・同松平領の五給。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]新南陽市大字高瀬

島地しまじ川の上流域に位置する村で、その支流の谷々にも集落が点在する。北部中央に千石せんごく岳があり、その東麓北は巣山すやま(現都濃郡鹿野町)、西麓北西は鯖河内さばごうち(現佐波郡徳地町)、東は大道理おおどうり(現徳山市)、南はたお夏切なつぎりの各村。江戸時代中期までは佐波さば中徳地なかとくじ(現佐波郡徳地町)に属したと思われる。萩藩領で徳地宰判に属する。

「地下上申」の元文二年(一七三七)の上申による総高は一千八八石余(田数二八町余、畠数六三町余)、家数一七〇、人口六二八であるが、寛延元年(一七四八)では総高一千九二石余、家数二五一、人口八一一と増えている。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]中津市高瀬

東は万田まだ村、西は高瀬川(現山国川)、北は下宮永しもみやなが村。高瀬川の自然堤防上にある。正嘉二年(一二五八)二月一六日の関東御教書案(末久文書)上毛こうげ郡公田吉富よしとみ(現福岡県吉富町)名主の一人高瀬又太郎の名がみえる。観応二年(一三五一)正月日の久恒範房軍忠状写(久恒文書)に「同廿一日、釈源水(秣・深水)凶徒打出下毛郡、焼払高瀬之間、馳向阪手隈、追散御敵、令破却両城」とみえ、かなりの集落の存在を物語っている。すでに宇佐勅使ちよくし道の宿駅として村落が発達していたと考えられる。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]白浜町富田とんだ

北と東は十九淵つづらふち村、西はしば村、南は朝来帰あさらぎ村。富田浦の一村で、熊野街道大辺路に沿い、草堂そうどう寺の裏山から東南に大辺路の富田坂がある。小名ふくろは南へ山を隔てた海辺に位置し港湾になっている。古くは熊野神領であったと伝え、戦国時代には小山氏・山本氏の勢力下に置かれ、また富田川東南の地に進出した内川氏の勢力が及んだという(続風土記)。慶長検地高目録では村高一一二石余。元和五年(一六一九)以降和歌山藩田辺領。富田組に属した。加子米は六・八石で幕末期まで変わらなかった(「御領分加子米高帳」田中家蔵)。元禄年間(一六八八―一七〇四)の「紀南郷導記」によると、棟数五〇で伝馬所があった。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]野村町高瀬

宇和川支流の富野とみの川・高瀬たかせ川流域の山村。川上に伊与地川いよじがわ(冨野川村)、川下に平野ひらの村がある。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「高瀬村 柴山、茅山、小川有」とある。

太閤検地の石高は三八八石五斗一升で、耕地の面積の比率は田六三パーセント、畑三七パーセントであったが、寛文検地には石高が一・二倍に増加し、田畑の比率は田四〇パーセント、畑六〇パーセントに変化した。「墅截」による村柄は「上」、耕地は田が「中」、畑が「中ノ上」、水掛りは「吉」とある。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は田五反六畝二歩、畑八反五畝一五歩である。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]山元町高瀬

南は真庭まにわ村、北は麻生原あそうばら村。南北九町三二間、東西三二町三五間。東の海岸際に端郷笠野浜かさのはまがある(安永風土記)。大条兵庫(宗頼)宛の寛永三年(一六二六)伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)に四年荒野の地としてみえる坂本さかもとの内の「横堀田七反」と「つち取場田三町分」は当地内と考えられ、地字横堀よこぼり土取場つちとりばが残る。正保郷帳では田五七貫一三四文・畑四貫九〇二文と一二貫四五一文の新田とある。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]会津若松市神指町高瀬こうざしまちたかせ

阿賀川と川の間にあり、東の湯川対岸は平沢ひらさわ村、南東は東城戸ひがしきど村、南は天満てんまん村、西は神指村。本村の東二町の端村新田しんでんの中を越後街道が通る。阿賀川・湯川・応湖おうご川など幾筋もの川が流れ、「石高く流れ急なる故に高瀬村と名けり」とあるように(新編会津風土記)、石川原で川底も高く、流れの速い瀬になっていた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では門田もんでん郡に村名があり、高三二〇石余。高久組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高六五九石余。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]五所川原市高瀬

岩木川下流右岸に位置し、東は種井たねい村、東南は田川たがわ村、北は鶴ヶ岡つるがおか村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳に高瀬村田方三二町六反二畝二九歩・畑方七町二反一歩、田畑屋敷合せて三九町八反三畝、村高二五六・六一一石、留林五ヵ所とある。「五所川原市史年表」は慶安三年(一六五〇)木村林右衛門の開拓とするが、「平山日記」は寛永年間(一六二四―四四)に開発された五所川原新田の一つとし、天和元年(一六八一)五所川原遣の成立によってこれに属した。前田村を高瀬村と改称(三好村郷土誌)、元禄三年(一六九〇)には広田組に属し、村位は下で、家数二四、うち庄屋一・百姓一三・水呑一〇であった(平山日記)


高瀬村
たこせむら

[現在地名]相川町高瀬

南にたちばな村、北は大浦おおら村、前面は海。大浦・橘と並ぶ二見ふたみ半島きっての農業村。中世に開かれたとみられる古田が、背後段丘のわずかな開析地帯に分散してみえる。かきうちの地名が、段丘先端部に二つあり、土塁をめぐらした屋敷跡が残る。当地には垣ノ内農民の系譜をひく者に佐々木姓も多く、現在一三軒ある。佐々木姓のほかに、五七世帯のうち宇田姓が三〇世帯近くを占め、垣ノ内農民とは別の西国とのつながりを思わせる。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]浪江町高瀬

高瀬川南岸にあり、北対岸は牛渡うしわた村・樋渡ひわたし村、南は鴻草こうのくさ(現双葉町)。村域中央を浜街道が通る。建武四年(一三三七)八月日の相馬朝胤軍忠状(大悲山文書)によれば、六月一五日に「高瀬林合戦」が行われている。正保郷帳では田方一六五石余・畑方一一七石余。元禄郷帳では高二五一石余。寛永一六年(一六三九)の高四二八石余、明暦二年(一六五六)の高三六七石余、元禄一五年(一七〇二)の高二五〇石余(奥相志)。天明三年(一七八三)の家数四八、嘉永元年(一八四八)の家数三七(検地石高収納戸口等調)。鴻草村との境の小山を葵の茎あおいのくきとよび、戊辰戦争の際慶応四年(一八六八)七月二九日に激戦があった。西の酒井さかい村との境界に丈六じようろく山があり、海東小太郎成衡の後室徳尼(標葉隆義の母)が丈六阿弥陀を祀ったと伝える。


高瀬村
たかぜむら

[現在地名]伊万里市南波多町みなみはたちよう高瀬

西は大野おおの(四二四メートル)、東は標高一六〇メートル台の平坦な丘陵、中央を徳須恵とくすえ川が北流する。これから下流の現高瀬・大曲おおまがり水留つづみ古里ふるさと谷口たにぐち重橋じゆうばしの六つの大字を下谷しもだにと地形上呼称する。正保絵図に村名がみえる。

村内の小字名としては大木場おおこばおく木場こば琵琶石びわいしなどがあり、琵琶石には櫨谷はぜんたにとよばれる集落が山中に孤立している。近世初め波多家の没落後、家臣は離散し山中に隠れ生活したという隠田集落の伝承がある。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]上板町高瀬

高磯たかいそ村の西、吉野川北岸にある。名西みようざい郡に属した。北は板野郡七条しちじよう村、南は吉野川を隔てて西覚円にしかくえん(現石井町)。西から東へ吉野川支流高志たかし川が流れ、南部は吉野川氾濫原となっている。同川対岸から当村を経て西の阿波郡八幡やわた(現市場町)へと向かう道が通る。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に高瀬村とみえる。正保国絵図では高七四五石余。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]岩出町高瀬

清水しみず村の西にあり、南はみや村。村の西境を根来ねごろ往還が南北に通る。「続風土記」は「村の東宮村の領に流川といふ字あり、古紀ノ川の流れ筋といへり、大川岐流なるへし、その岐流に臨みて北の方にて土地高く瀬をなしゝ故高瀬の名起れるなり、今も此村の南は東西に通りて土地下にして川形あり、村より南一町許に薦池といひし名今に残れり」と記す。中世は石手いわで庄に含まれたと思われる。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]南那須町高瀬

大きく蛇行しながら南東流するあら川左岸段丘上に位置し、北は大和久おおわぐ村、荒川を挟み西は小河原こがわら村、南は深作ふかさく村。「那須記」によれば武勇で聞えた後藤次郎は、那須与一の父資隆より当地を賜り、高瀬次郎基時と号したという。永禄九年(一五六六)治武内山じぶうちやま合戦では、那須上の衆勢、宇都宮勢の連合軍と烏山からすやま城那須資胤の軍勢が当地で激戦を交えている。元和六年(一六二〇)の那須資重書状(那須譜見聞録)に村名がみえ、近世初頭は那須藩領であったと考えられる。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]武生市高瀬町・高瀬一―二丁目・日野美ひのみ一丁目

府中町の西南に隣接した村。福井藩領(府中本多氏知行所)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名と高五四六・一石が記され、正保郷帳によれば田方四七三石余・畠方七二石余。「越前国名蹟考」は枝村として川濯かわそを記す。

河濯かわそ社は江戸時代は河濯大権現と称し、本地仏は大日如来で延喜年中(九〇一―九二三)の草創と伝えるが、天正の兵火にかかって小社に零落したため、慶安三年(一六五〇)本多昌長が再興したという。「越前国名蹟考」には「祭礼六月晦日、婦人帯下の病を守り玉ひ霊験ことにあらたかなるにより遠近より群集す」とある。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]仁淀村高瀬

もり村の西、仁淀川右岸に位置し、「土佐州郡志」に「在森村西、東限森村田之瀬、西限別枝村徳道、南限長者泉通石神峠、北限自予州来大川、此村方一里三十町余、其土黒」とある。中世は別符山べふやま五名のうち西森にしもり名に含まれ、天正一七年(一五八九)別符山西森名地検帳に名内の小村として高瀬村がみえ、仁淀川本流沿いに「筏場」の小字も認められる。

地検帳の高瀬村に西谷にしだに村を併せて近世高瀬村が成立、深尾氏知行の佐川領山分九ヵ村の一となり、「土佐州郡志」によれば村内に西谷・鉾石ほこいしかつらの小村があった。


高瀬村
こうぜむら

[現在地名]武雄市西川登町にしかわのぼりまち神六じんろく字高瀬

現西川登町の北東部に位置し、高瀬山西麓一帯。

永仁七年(一二九九)六月五日の長嶋庄高瀬山田畠山野下地中分状(橘中村家文書)によれば、長島庄惣地頭橘薩摩氏が蓮華王れんげおう院に「高瀬山」だけを残して、ほかの長島ながしま庄の全域を自己の領有とした。この残された範囲が高瀬村である。室町時代に塚崎つかざき庄が成立して高瀬もその荘域に加えられ、塚崎後藤氏の所領となる。江戸時代には佐賀藩武雄領。明治六年(一八七三)神六村となる。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]名川町高瀬

八戸はちのへ城下(現八戸市)の南西、馬淵まべち川の中流右岸の河岸段丘に位置する。西から北へ馬淵川が流れる。東は上名久井かみなくい村、西は馬淵川を隔てて盛岡藩領玉懸たまかけ(現南部町)、南は法光寺ほうこうじ村、北は馬淵川を隔てて盛岡藩領相内あいない(現南部町)に接する。

藩政当初は盛岡藩に属したが、寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入された。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に名久井通なくいどおり村八ヵ村の一として村名がみえ、高一五二・二一三石、うち畑八一・七八石とある。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]井波町高瀬

井波町の北西、戸板といた村の北に位置し、大門だいもん(東大谷川)流域平地に立地。式内社の高瀬神社が鎮座し、同社を含む一帯に中世高瀬庄が成立。同社南方に高瀬遺跡があり、また勧学院かんがくいんの地名が残ることから、「延喜式」大学寮条にみえる礪波郡大学寮田(勧学院田)に比定する説があり、現在勧学院塚がある。元和五年(一六一九)の家高新帳では高瀬村は役家数一四、つほ野組に属する。ほかに「たう高瀬村」がみえ役家数一一、かなや組に属する。正保郷帳では高瀬村は高七八二石余、田方四六町九反余・畑方五町二反余、新田高四二石余堂高瀬どうたかせ村は高七八一石、田方四六町七反余・畑方五町二反余、堂高瀬新村は高三五石余、田方一町九反余・畑方四反。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]大東町高瀬

小貫おぬき村の北、佐束さづか川上流部に位置し、東は中内田なかうちだ(現菊川町)。中世は佐束郷に属したとみられる。古くは中方なかほう村・小貫村と一村であった(遠淡海地志)。正保郷帳に村名がみえ、田方一千八四石余・畑方三四三石余、ほかに山札一二石余、横須賀藩領。以後の領主の変遷は小貫村に同じ。元禄郷帳では高七五二石余。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]中村市高瀬

手洗川たらいがわ村の北西、四万十しまんと川右岸にあり、西になべもりがそびえる。川登かわのぼり村の枝郷。天正一八年(一五九〇)の川登九村地検帳によれば高瀬村の検地面積九町二反余、屋敷数七(全部居屋敷)。江戸時代には元禄郷帳によると本田高八六石余。寛保郷帳には村名の記載なし。「西郡廻見日記」(享和元年)は高瀬村・くす村を連記し、庄屋は兼帯。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]春野町宮川みやがわ

河内こうち村の北西、南流する気田けた川中流左岸、熊切くまきり川との合流地点のやや上流にあり、秋葉山東麓に位置する。集落は河岸低地の山際に集中する。江戸時代は幕府領。正保郷帳に村名がみえ永八貫四八二文。うち秋葉寺領七〇文・永光寺領五〇文・権現領三三文。柴草山ありと注記される。元禄郷帳では高五九石余。年貢は金納で、小物成は売物二割出・駒役・黐役・鉄砲役・山手役等があった(年未詳「犬居領四一ヵ村小物成等書上」白川家文書)


高瀬村
たかせむら

[現在地名]行橋市高瀬

馬場ばば村の南に位置し、のぞき山西麓の低丘陵上に立地する。西は辻垣つじかき村。村内を中津街道が通る。元和八年人畜改帳に村名がみえ、給人一人分の高四七四石余、家数三一・人数六五(うち庄屋一・百姓七・名子等九)、牛八・馬三。郷村高帳では高五〇七石余、うち新田高三二石余。旧高旧領取調帳では高五〇九石余。定免制施行後の年貢率は四一・五パーセント(嘉永五年仲津郡本田畑御勘定帳)


高瀬村
たかせむら

[現在地名]長岡市高瀬町

東はさかい村、西は王番田おうばでん村・寺宝じほう村。天正村名考(温古之栞)に「高瀬三十二軒」と伝える。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高二三〇石四斗余。正保国絵図では高三八八石余。元禄郷帳の村高は知行目録と同じ。旧高旧領取調帳では高五一七石二斗余。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]八尾町高瀬

天池あまいけ村の西、室牧むろまき谷の西部にあり、室牧川の支流高瀬川が流れる。正保郷帳に村名がみえるが、村高などはさかした村と合せて記される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では柚木ゆのき村の一一町ほど北西方にある枝村新田としてみえ、高三一石。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]和田山町宮田みやだ

宮田村の北にある。弘安八年(一二八五)但馬国太田文では石禾下いさわしも庄内の「高瀬村」としてみえる。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高一四一石余。寛文八年(一六六八)から豊岡藩領となり、宮田村と同じく享保一一年(一七二六)頃に幕府領になったと推定される。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]古座川町高瀬

古座川の下流南岸にあり、北は対岸の川口かわぐち村。慶長検地高目録によると村高一一一石余。古座組に属し、「続風土記」には家数一八、人数八〇とある。慶安三年(一六五〇)の古座組在々郷組之覚(古座町教育委員会保管)によると、浦組制度による当村の動員体制は家数二二、人数二三、舟八(川舟)、鉄砲一であった。


高瀬村
たかせむら

[現在地名]大台町高奈たかな

奈良井ならい村の南東、宮川の左岸にある。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「奈良井高瀬村」と記されている。開発の史料として元禄一三年(一七〇〇)新田畑辰改検地帳(同蔵)が伝わる。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数二六、人数一二三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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