日本歴史地名大系 「千村」の解説
千村
せんまやむら
南西へ流れる千厩川沿いにあり、南は
弘安八年(一二八五)三月一五日の尼慈阿譲状(秋田茂木文書)に「岩井郡内千馬屋郷」とみえ、慈阿は父伯耆四郎左衛門入道(葛西光清か)より相伝した同郷を子息茂木三郎知氏に譲った。正和二年(一三一三)二月一〇日、知貞(明阿)は父知氏より同郷を譲られたが、同五年には相伝をめぐって重知との間に裁判となり(建武四年七月三日「足利直義下文」同文書)、先の慈阿譲状の裏には正和五年一一月四日付で重知より偽文書との指摘があったことが記されている。しかし知貞は勝訴したらしく、元亨三年(一三二三)一二月二日に外題安堵を得た。南北朝期には知貞は足利方に属して戦い、建武三年(一三三六)一一月七日の南朝北畠軍の攻撃により知貞の宿所は炎上、知氏譲状などは失われたという(前掲下文)。その後千厩郷は知貞―知世―朝音―基知―満知(幸楠丸・知清)―知政(満王丸)へと茂木氏に相伝され、応永一一年(一四〇四)正月二五日の茂木知清譲状案(同文書)以降茂木氏とのかかわりを示す史料は残っていない。
明応八年(一四九九)には寺崎下野守が「千厩」近辺に出陣して
千村
ちむら
- 神奈川県:秦野市
- 千村
西境を
近世は初め幕府直轄領と旗本鵜殿領の二給、慶長六―七年(一六〇一―〇二)に旗本鵜殿・辻領の二給。寛延三年(一七五〇)の東海道小田原宿助郷高控帳(熊沢文書)によると、享保三年(一七一八)小田原宿の加助郷高一八九石を勤め、同一〇年から八五石が免除となった。また矢倉沢往還では
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報