千村(読み)せんまやむら

日本歴史地名大系 「千村」の解説


せんまやむら

[現在地名]千厩町千厩

南西へ流れる千厩川沿いにあり、南は増沢ますざわ(現藤沢町)、西は薄衣うすぎぬ(現川崎村)。ほぼ東西気仙沼けせんぬま街道が走る。村名は勢間屋せまや千馬屋せんまやなどとも記される。由来については、源義家が奥州下向の際当地で一千頭の馬をつないだことにちなむとも(安永風土記)、日本武尊が鬼首おにこうべ(室根山)の敵と対峙した時当地で一千把の矢を作らせて以来、千把矢せんばやと称したのが訛ったとも、アイヌ語のサン(出る)・モ(穏・小)・ヤ(陸)によるものなど、諸説がある。千厩地区南方の東小田ひがしこだが義家馬繋の地とされ、石室や蹄の跡が残っていたといわれるが(「天明六年菅江真澄日記」など)、道路開削工事によりほとんど跡をとどめない。また源義経の愛馬太夫黒の産地という伝承もある。

弘安八年(一二八五)三月一五日の尼慈阿譲状(秋田茂木文書)に「岩井郡内千馬屋郷」とみえ、慈阿は父伯耆四郎左衛門入道(葛西光清か)より相伝した同郷を子息茂木三郎知氏に譲った。正和二年(一三一三)二月一〇日、知貞(明阿)は父知氏より同郷を譲られたが、同五年には相伝をめぐって重知との間に裁判となり(建武四年七月三日「足利直義下文」同文書)、先の慈阿譲状の裏には正和五年一一月四日付で重知より偽文書との指摘があったことが記されている。しかし知貞は勝訴したらしく、元亨三年(一三二三)一二月二日に外題安堵を得た。南北朝期には知貞は足利方に属して戦い、建武三年(一三三六)一一月七日の南朝北畠軍の攻撃により知貞の宿所は炎上、知氏譲状などは失われたという(前掲下文)。その後千厩郷は知貞―知世―朝音―基知―満知(幸楠丸・知清)―知政(満王丸)へと茂木氏に相伝され、応永一一年(一四〇四)正月二五日の茂木知清譲状案(同文書)以降茂木氏とのかかわりを示す史料は残っていない。

明応八年(一四九九)には寺崎下野守が「千厩」近辺に出陣して東山ひがしやまに放火したという(同年一二月一三日「薄衣状」奥羽編年史料抄)。天正一九年(一五九一)五月八日の伊達政宗過所(千厩永沢文書)には、千厩の藤左衛門が出羽最上もがみから俵物一〇〇駄を「とよま」を通り奥へ運ぶとある。慶長五年(一六〇〇)の文間右近古田九兵衛連署人数扶持方書出状(伊達家文書)によれば「せんまへ」に足軽一四七人・馬乗五騎二五人が配されていた。同年の山岡重長以下人数書(同文書)では喜庵牧野右兵衛が藤沢ふじさわ(現藤沢町)・千厩を管轄していたことがわかる。いっぽう当地は古く萩の里はぎのさと松沢まつざわ郷とよばれたという伝承があり、松沢郷は「和名抄」にみえる沙沢ますざわ郷が訛ったものといわれる。


千村
ちむら

[現在地名]秦野市千村・沼代新ぬましろしん

西境を四十八瀬しじゆうはつせ(川音川)が流れ、北は堀沼城ほりぬましろ村、東は渋沢しぶさわ村、西・南は足柄上あしがらかみ松田惣領まつだそうりよう神山こうやま(現松田町)に接する。北を矢倉沢やぐらさわ往還が西から東へ通り、西方に屈掛くつかけ坂とよばれる難所がある。小田原衆所領役帳には清水与三左衛門「拾八貫文 中郡知村」とある。

近世は初め幕府直轄領と旗本鵜殿領の二給、慶長六―七年(一六〇一―〇二)に旗本鵜殿・辻領の二給。寛延三年(一七五〇)の東海道小田原宿助郷高控帳(熊沢文書)によると、享保三年(一七一八)小田原宿の加助郷高一八九石を勤め、同一〇年から八五石が免除となった。また矢倉沢往還では曾屋そや村と松田惣領間の継立てを行った(風土記稿)。宝永五年(一七〇八)八月の荒地書上(秦野市史二)によると、前年の富士山噴火による被害は田六町七反八畝余のうち三町一反一畝一九歩に及んでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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