千町野新田(読み)せんちようのしんでん

日本歴史地名大系 「千町野新田」の解説

千町野新田
せんちようのしんでん

[現在地名]茂原市六ッ野むつのなど

千町村の南西に位置する。同村から木崎きさき村にかけての沼地であった千町野の開発によって成立した新田の総称。開発着手は天和二年(一六八二)といわれる(上総国町村誌)。享保二〇年(一七三五)新田開発仕上げの検地が行われて範囲が確定、上福じようふく新田・総寿そうじゆ新田・国昌くにまさ新田・千盛ちもり新田・新久あらく新田・田永たなが新田・町保まちぼ新田・木崎新田・千町村新田・小林川上こばやしかわかみ新田となった。このうち木崎新田は木崎村、千町村新田は千町村を本村とし、川上小林新田を除く残りの七新田には「上総国千町新田ハ昌盛ニシテ福寿ヲ永久ニ保ツ」の文言から二字ずつを組合せて新田名が付けられた(茂原市史)。町保新田は現在の町保など、川上小林新田は現在の上林かんばやしなどの地となっているが、前記七新田から町保新田を除いた六新田は、明治八年(一八七五)合併して六ッ野村となった。

寛永一八年(一六四一)代官野村彦太夫が幕府へ提出した村高書上帳(藤乗家文書)に千町新田は高六〇石余、同新田野の広さは二八町半・一四町とある。寛文二年(一六六二)江戸の紙問屋広島屋治右衛門は、自己資金のほか幕府からの借金によって千町野開発に着手したが、掘割をつくって沼の水を阿久あく川へ落し込もうとしたため、この水に頼っていた地元百姓利害がからんで失敗。同五年に官費浪費の責任をとって木崎村東泉とうせん寺境内で切腹した(茂原市史)。この堀は広島ひろしま堀と称され、約一・五キロあったという。現在寸断されてはいるが、木崎字三貫野さんがのに昔日の跡を残す。享保七年幕府より新田開発奨励の布令が出され、翌八年地元百姓の開発願に対して許可が下り、一五一町余が割渡された(河野家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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