取石
とろし
現高石市南東部の信太山麓一帯の地域にあたり、「和名抄」大鳥郡
部郷(中世は草部郷)に属した。旧土生村・新家村・大園村などを中心に、泉郡舞村(現和泉市)付近をも含んだと考えられる。東部を熊野街道が通り、「続日本紀」神亀元年(七二四)一〇月二一日条に、聖武天皇が紀伊行幸の帰途、所石頓宮に至ったことがみえ、街道沿いの要所であったことがわかる。街道の東には古代以来当地域の主要な用水源であり、取石の開発・再開発に不可欠であった鳥石池(取石池)があった。この池は「万葉集」巻一〇に「妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし」と詠まれ、西畔が熊野街道の一部をなした。江戸時代には綾井五ヵ村の立会池であったが(寛文一一年とろす池水一件訴訟)、昭和一六年(一九四一)に埋立てられている。
古代には当地に百済の渡来系氏族取石造の居住がうかがわれ(「新撰姓氏録」和泉国諸蕃)、中世になると取石を本貫として草部・大鳥両郷で活躍する取石氏が知られる。建仁元年(一二〇一)一一月、草部郷収納使の沙汰として、取石正方らが郷内村々刀禰職を押取ろうとしたことがあった(建仁二年四月一五日「摂政家政所下文案」田代文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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