吉ヶ原村(読み)きちがはらむら

日本歴史地名大系 「吉ヶ原村」の解説

吉ヶ原村
きちがはらむら

[現在地名]柵原町吉ヶ原

柵原村の南東、吉井川左岸に立地し、南東は飯岡ゆうか村。吉井川の川湊で、勝南しようなん郡一七ヵ村の年貢米を積出した(作州記)正保郷帳などでは木知ヶ原村と記されるが、享和三年(一八〇三)より吉ヶ原に改めたという(東作誌)。永禄一二年(一五六九)三月二六日の誕生たんじよう(現久米南町)の御影堂建立奉加帳写(誕生寺文書)に「壱貫弐百文 木知原新兵衛尉後家」とある。正保郷帳では田五八石余・畑二八九石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高八七石余・開高四石余、村位は上。津山藩辺境警備として備前境の木知ヶ原口に陣屋を構えた。津山藩森氏断絶後は幕府領、元禄一四年甲斐甲府藩主徳川綱豊領、宝永六年(一七〇九)幕府領、寛延元年(一七四八)播磨三日月藩預、天明七年(一七八七)下総佐倉藩領、寛政六年(一七九四)播磨龍野藩預、天保九年(一八三八)津山藩領(美作国郷村支配記)


吉ヶ原村
よしがはらむら

[現在地名]神岡町吉ヶ原

高原たかはら川中流東岸、低位河岸段丘上にあり、東は笈破おいわれ村、西は割石わりし村、南は鹿間しかま村。耕地はほとんどなく傾斜地で、地質も悪い所であった。割石村の枝村的存在。

慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では「舟津町村所々十村分」に含まれ、同一八年の郷帳では高原郷に属する東山中ひがしさんちゆう村高一〇四石に含まれる。元禄検地反歩帳では高七斗余、畑のみ四反八畝余であった。「飛騨国中案内」では免三割五分四厘余、家数一は百姓

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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