高原郷(読み)たかはるごう

日本歴史地名大系 「高原郷」の解説

高原郷
たかはるごう

鹿児島藩外城の一つ。現在の高原町域の四ヵ村および水流つる(現都城市)からなる。鹿児島からの距離は浜之市はまのいち(現鹿児島県隼人町)経由で一八里半、真幸まさき経由で二二里半(要用集)

天正四年(一五七六)八月の高原城攻略後、上原長門守が高原地頭任命された(「箕輪伊賀覚書」旧記雑録など)。ただし高原所系図壱冊(永浜家文書)では高原地頭之次第は天正三年鎌田刑部から始まっている。文禄二年(一五九三)八月二三日の新納旅庵書状(旧記雑録)には「高原地頭職之事、利安答院移ニ付而」とあり、同年までは山田利安(理安)が勤めていた。慶長四年(一五九九)庄内合戦に際し、高原地頭入来院重時も高原・高崎たかさき守衛を命じられ、六月二三日には新納忠元らとともに山田やまだ(現山田町)攻撃に出陣し、同日に落城させている(「島津国史」など)。このとき伊集院方にくみした高原衆中徳永淡路兄弟は切腹を命じられた。高原郷からの出陣は白坂権之介ら一一名、遠見渡野割忍之人数として山本清兵衛ら一〇名があげられている(高原所系図壱冊)。翌五年三月二五日島津氏から庄内しようない退治成就を感謝して霧島山に高原のうち蒲牟田かまむた村五〇八石が寄進された(「島津忠恒寄進状」霧島神宮文書)。入来院又六重時は同年の関ヶ原合戦で戦死している(高原所系図壱冊)

慶長一九年高原前田まえだ(現高崎町)の浮免一〇石五斗が立本大右衛門尉に(「島津氏知行宛行状」政野家文書)、同所内浮免一三石が朝倉主計助に(「島津氏知行宛行状写」朝倉文書)、翌二〇年には高原のうち大牟田おおむた(現高崎町)一千四二二石余が北郷忠能に宛行われている(「伊勢貞昌外三名連署知行目録」都城島津家文書)


高原郷
たかはらごう

神岡かみおか町・上宝かみたから村一帯を占める平安時代末期から近世にかけての郷。仁安元年(一一六六)頃の飛騨国雑物進未注進状(宮内庁書陵部蔵)によれば、高原郷は「仁久乃皮十枚」を未進している。鎌倉・南北朝期、当郷には江馬一族が土着し、勢力を拡大しつつあった(江馬家累代記)。康永三年(一三四四)一一月一六日、足利尊氏は「高原・小八賀南方」の代りとして、佐渡国青木あおき(現新潟県佐渡郡新穂村)などの地頭職を近江園城おんじよう寺に寄進した(「足利尊氏所領寄進状」園城寺文書)


高原郷
たかはらごう

和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「多加波良」と訓を付す。「延喜式」(兵部省)諸国駅伝馬に「高原」があり、駅馬・伝馬各五疋が置かれている。「地理志料」は田原たばる(現鹿本郡植木町)を高原の転訛とみるが、一般には肥後国府から山鹿やまが郡家への道と玉名たまな郡家への道が分岐する交通の要衝で、標高一〇〇メートル内外の台地に位置する現植木うえき町植木付近に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「高原郷」の解説

たかはらごう【高原郷】

岐阜日本酒。仕込み水は飛騨山系の伏流水。蔵元の「大坪酒造店」は天保13年(1842)創業所在地は飛騨市神岡町朝浦。

出典 講談社[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクションについて 情報

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