津山城下
つやまじようか
慶長八年(一六〇三)、森忠政の美作国入部によって創設された。忠政は入国直後城地を選定し、その候補地として初め西部の美作国の守護館跡に隣接した院庄を選び、出雲往来に沿った院庄村の街村を城下町に予定、また東部の日上村の小丸山に城を築き、河辺・国分寺付近を城下町にとも考えたが、最終的に吉井川と宮川との合流点の西北に位置する鶴山に築城を決定した。この地は津山盆地の中心で、美作国衙跡にも近く、出雲往来に沿う水陸交通の要衝であった。「森家先代実録」に「戸川町・林田町も有り、毎月朔望ニハ国中の人民群集ヲなし、戸川の市とて売買ヲなす」と記すように、宮川の東一帯にあたり、吉井川と出雲往来に沿った中世の林田郷の市場、鶴山から椿高下・小田中丘陵の南麓一帯にあたり、同じく吉井川・出雲往来に沿って成立していた戸川宿が城下町形成の中核となった。また鶴山には八幡宮、日蓮宗妙法院(現妙法寺)、山下には屋後(八子)町といった寺社集落が成立しており、寺内町的景観を呈していた。とくに戸川宿は戦国末期、小田中丘陵の北端付近にあった神楽尾城の山下集落であったと伝えられている(美作古城跡)。
〔創設〕
森忠政は鶴山築城を決定するとともに城下町の創設を開始した。その縄張りをみると、宮川以東の中世の林田郷を東の町、宮川から藺田川までの西を中央の町、藺田川以西を西の町と分けることができる。鶴山・丹後山の南を吉井川に沿って走る出雲往来沿いに町屋を配し、軍事上の要衝をなす丹後山南麓および鶴山丘陵の西に連なる椿高下丘陵南麓から紺屋町溝の北まで、さらに城の北、備前往来の要衝にあたる吉井川と藺田川の合流点付近に上之町・田町・城代町・北町・南新座・鉄砲町の侍屋敷、藺田川の西に西寺町を配置した。正保城絵図によれば、侍屋敷は上・中級武士を示す「侍屋敷」と下級武士を示す「足軽町」および「歩小性町」に区別して記され、宮川以東および鉄砲町は下級武士の居住区であった。寺町は鶴山にあった妙法院をはじめ、近在にあったものを強制移転し、また忠政の旧領地から移転したもの、住民の移転とともに移ってきたものなど、その成立の事情はそれぞれ異なる寺院によって構成された。出雲往来沿いに北側に寿光寺・愛染寺・大円寺、南側に妙法寺、藺田川口に成道寺、さらに田町の侍屋敷の西に続く小田中村に本源寺の大寺を配置した。この配置構想は軍事に備えたものだといわれている。とくに妙法・妙勝・本行などの日蓮宗、成道・成覚・本覚・泰安の浄土宗の寺院が西寺町の中核となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の津山城下の言及
【津山[市]】より
…JR姫新線が通じ,津山線と因美線を分岐し,中国縦貫自動車道のほか国道53号,179号,181号線が通じる。【由比浜 省吾】
[津山城下]
[津山藩]主森・松平両氏の城下町。1603年(慶長8)信濃国川中島13万7500石から美作一国18万6500石に移封された森忠政は,かつて守護館が設けられた美作の府院庄に仮城を構えたが,翌年要害の地鶴山を選んで城地と定め,16年(元和2)まで13年の歳月を費やして壮大な平山城を築いた。…
※「津山城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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