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津山藩 つやまはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

津山藩
つやまはん

江戸時代,美作国 (岡山県) 津山地方を領有した藩。慶長8 (1603) 年に森忠政が信濃 (長野県) 川中島から 18万 6500石で入封,元禄 10 (97) 年の除封まで森氏が在封,森氏は再興して備中 (岡山県) 西江原へ移封,代って松平 (結城) 宣富が 10万石で新封,廃藩置県にいたった。

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百科事典マイペディアの解説

津山藩【つやまはん】

美作(みまさか)国津山に藩庁をおいた。1603年外様(とざま)の森忠正(ただまさ)が美作1国18万6000石を与えられて入封し立藩。森氏断絶後,家門(かもん)の松平(越前)氏が入封,領知高は5万石〜10万石。
→関連項目山中一揆美作国

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

つやまはん【津山藩】

江戸時代美作(みまさか)国西西条郡津山(現、岡山県津山市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち親藩(しんぱん)。藩校は学問所。1603年(慶長(けいちょう)8)、信濃(しなの)国川中島から森忠政(ただまさ)(森蘭丸(らんまる)の弟)が美作1国18万6500石を与えられて入封(にゅうほう)し立藩。忠政は津山城の築城と城下町の建設、検地を実施するが、5代衆利(あつとし)が参勤途上で発狂し、領地没収となった。98年(元禄11)、家門(かもん)の松平(越前)長矩(ながのり)(のち宣富(のぶとみ))が美作国のうち10万石を与えられて入封。以後明治維新まで、松平(越前)氏9代が続いた。長矩が入封した年に高倉(たかくら)騒動と呼ばれる百姓一揆が発生、1726年(享保(きょうほう)11)には山中(さんちゅう)一揆、幕末には改政一揆が起こるなど政情は常に不安定だった。1871年(明治4)の廃藩置県で津山県となり、その後、北条県を経て、76年岡山県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

つやまはん【津山藩】

美作(みまさか)国(岡山県)津山に藩庁を置いた藩。初期は外様,中期以降は家門中藩。1603年(慶長8)森忠政が朱印高18万6500石の美作一国を与えられ,信州川中島から移封されて立藩した。彼は新規に津山城を築き,領内各地から商人,職人を集めて城下町を経営するとともに慶長検地を行い,また国衆の土着した土豪地主の懐柔に努め,頭百姓の格を与え,大庄屋,肝煎,庄屋などに取り立て,地方支配の体制強化に尽力した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

津山藩
つやまはん

美作(みまさか)国津山(岡山県津山市)地方を領有した藩。1603年(慶長8)信州(長野県)川中島(かわなかじま)から森忠政(ただまさ)が美作一国18万6500石の領主として入封。忠政は入国し、翌年津山城の築城、城下町の建設、国内総検地などを実施した。1631年(寛永8)忠政の外孫関長継(せきながつぐ)が2代藩主となり、市中法度(はっと)、山林検地、郡制の改制などを行った。1674年(延宝2)長継は次子長義(ながよし)に3代藩主を継がせた。1686年(貞享3)長継の長子忠継(ただつぐ)の子長成(ながなり)が成長し、4代藩主となった。長成は家老長尾勝明(ながおかつあき)に命じて『作陽誌』を編纂(へんさん)させた。1695年(元禄8)幕命により江戸中野に犬小屋を建造し、藩財政は極度に窮乏した。97年長成は病死し、嗣子(しし)として長成の叔父関衆利(あつとし)(長継の実子)が幕府の認可を得たが、江戸への道中で精神に異常をきたし、森津山藩は断絶となった(隠居の元藩主長継には備中(びっちゅう)西江原2万石が与えられた)。
 1698年松平長矩(ながのり)(のち宣富(のぶとみ)、越前(えちぜん)家)が美作国のうち10万石を与えられ津山城に入った。長矩は入国と同時に農村の租率を強化したため高倉(たかくら)騒動とよばれる百姓一揆(いっき)にみまわれた。1721年(享保6)宣富が死去し、6歳の松平浅五郎(あさごろう)が封を継いだが、26年に死去し、国中は山中(さんちゅう)一揆により騒然とする。幕府は、養嗣子(ようしし)松平長煕(ながひろ)を藩主とし、領地を5万石に減じた。以後、長孝(ながたか)、康致(やすちか)、康乂(やすはる)、克孝(かつたか)、斉民(なりたみ)、慶倫(やすとも)が藩主を継承し明治維新に至っている。克孝は1817年(文化14)11代将軍徳川家斉(いえなり)の子銀之助(ぎんのすけ)(斉民)を養子としたため、5万石の加増を受けた。慶倫は維新期の諸政策を実施するが、幕末の政情不安と貢担の過重のため、改政一揆が1866年(慶応2)に起こった。71年(明治4)廃藩、津山県、北条県を経て76年岡山県に編入。[人見彰彦]

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世界大百科事典内の津山藩の言及

【津山[市]】より

…JR姫新線が通じ,津山線と因美線を分岐し,中国縦貫自動車道のほか国道53号,179号,181号線が通じる。【由比浜 省吾】
[津山城下]
 津山藩主森・松平両氏の城下町。1603年(慶長8)信濃国川中島13万7500石から美作一国18万6500石に移封された森忠政は,かつて守護館が設けられた美作の府院庄に仮城を構えたが,翌年要害の地鶴山を選んで城地と定め,16年(元和2)まで13年の歳月を費やして壮大な平山城を築いた。…

【松平氏】より

…一方忠直の長男光長は,父配流のとき越後高田25万石を与えられたが,越後騒動の結果1681年(天和1)所領を没収された。養子宣富の代98年(元禄11)美作津山10万石に封ぜられ,以後津山松平家と呼ばれる(津山藩)。越前家では,福井城主の忠昌系と,その兄忠直系の津山家との間で本家争いがある。…

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