津山藩(読み)つやまはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「津山藩」の意味・わかりやすい解説

津山藩
つやまはん

美作(みまさか)国津山(岡山県津山市)地方を領有した藩。1603年(慶長8)信州(長野県)川中島(かわなかじま)から森忠政(ただまさ)が美作一国18万6500石の領主として入封。忠政は入国し、翌年津山城築城城下町の建設、国内総検地などを実施した。1631年(寛永8)忠政の外孫関長継(せきながつぐ)が2代藩主となり、市中法度(はっと)、山林検地、郡制の改制などを行った。1674年(延宝2)長継は次子長義(ながよし)に3代藩主を継がせた。1686年(貞享3)長継の長子忠継(ただつぐ)の子長成(ながなり)が成長し、4代藩主となった。長成は家老長尾勝明(ながおかつあき)に命じて『作陽誌』を編纂(へんさん)させた。1695年(元禄8)幕命により江戸中野に犬小屋を建造し、藩財政は極度に窮乏した。97年長成は病死し、嗣子(しし)として長成の叔父関衆利(あつとし)(長継の実子)が幕府の認可を得たが、江戸への道中で精神に異常をきたし、森津山藩は断絶となった(隠居の元藩主長継には備中(びっちゅう)西江原2万石が与えられた)。

 1698年松平長矩(ながのり)(のち宣富(のぶとみ)、越前(えちぜん)家)が美作国のうち10万石を与えられ津山城に入った。長矩は入国と同時に農村の租率を強化したため高倉(たかくら)騒動とよばれる百姓一揆(いっき)にみまわれた。1721年(享保6)宣富が死去し、6歳の松平浅五郎(あさごろう)が封を継いだが、26年に死去し、国中は山中(さんちゅう)一揆により騒然とする。幕府は、養嗣子(ようしし)松平長煕(ながひろ)を藩主とし、領地を5万石に減じた。以後、長孝(ながたか)、康致(やすちか)、康乂(やすはる)、克孝(かつたか)、斉民(なりたみ)、慶倫(やすとも)が藩主を継承し明治維新に至っている。克孝は1817年(文化14)11代将軍徳川家斉(いえなり)の子銀之助(ぎんのすけ)(斉民)を養子としたため、5万石の加増を受けた。慶倫は維新期の諸政策を実施するが、幕末の政情不安と貢担の過重のため、改政一揆が1866年(慶応2)に起こった。71年(明治4)廃藩、津山県、北条県を経て76年岡山県に編入。

[人見彰彦]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「津山藩」の意味・わかりやすい解説

津山藩 (つやまはん)

美作(みまさか)国(岡山県)津山に藩庁を置いた藩。初期は外様,中期以降は家門中藩。1603年(慶長8)森忠政が朱印高18万6500石の美作一国を与えられ,信州川中島から移封されて立藩した。彼は新規に津山城を築き,領内各地から商人,職人を集めて城下町を経営するとともに慶長検地を行い,また国衆の土着した土豪地主の懐柔に努め,頭百姓の格を与え,大庄屋,肝煎,庄屋などに取り立て,地方支配の体制強化に尽力した。しかし慶長検地は拙速ずさんであったため,次の藩主長継のとき検地の手直し,いわゆる寛文の地押(じおし)(地坪(じならし))を実施し,また平地に住む農民を丘陵に移転させて耕地の拡大を図った。97年(元禄10)の調査では,検地竿先の出目と新田畑の高繰入れによって,津山藩の内高は25万9327石余に達した。寛文の地押以後も過酷な収奪は変わらず領民は逃散,一揆をもって藩と闘った。97年藩主長成が若死し,叔父関衆利(あつとし)を養嗣子としたが,参勤途上で発狂し森氏は断絶した。その結果,美作は一時天領となった。

 翌年松平光長の子宣富が美作のうち10万石を与えられて津山藩主となったが,1721年(享保6)に死去し幼少の浅五郎が襲封,彼のもとで勘定奉行久保新平が郡中惣呑込の要職に起用されて財政改革を行い,年貢増徴を断行した。しかし26年浅五郎が若死して減封必至となった。そのため領民の動揺が著しく,同年暮れに至り美作西部の山中(さんちゆう)地方を中心に大一揆が起こった。いわゆる山中一揆である。幕府は5万石を収公し,残る5万石をもって松平長熈の相続を許した。62年(宝暦12)藩主となった康致(康哉)(やすちか)は藩政改革を行い人材登用,文武奨励,民意採用などに努めた。1817年(文化14)将軍徳川家斉の子銀之助(斉民)を養嗣子に迎え,このとき5万石を加増され10万石に復した。55年(安政2)康倫(やすとも)が藩主となり幕末の難局に対処したが,政情不安と年貢過重から66年(慶応2)改正一揆が起きた。親藩ながら〈朝命遵奉〉の線で,大勢に順応して明治維新を迎えた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

藩名・旧国名がわかる事典 「津山藩」の解説

つやまはん【津山藩】

江戸時代美作(みまさか)国西西条郡津山(現、岡山県津山市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち親藩(しんぱん)。藩校は学問所。1603年(慶長(けいちょう)8)、信濃(しなの)国川中島から森忠政(ただまさ)(森蘭丸(らんまる)の弟)が美作1国18万6500石を与えられて入封(にゅうほう)し立藩。忠政は津山城の築城と城下町の建設、検地を実施するが、5代衆利(あつとし)が参勤途上で発狂し、領地没収となった。98年(元禄11)、家門(かもん)の松平(越前)長矩(ながのり)(のち宣富(のぶとみ))が美作国のうち10万石を与えられて入封。以後明治維新まで、松平(越前)氏9代が続いた。長矩が入封した年に高倉(たかくら)騒動と呼ばれる百姓一揆が発生、1726年(享保(きょうほう)11)には山中(さんちゅう)一揆、幕末には改政一揆が起こるなど政情は常に不安定だった。1871年(明治4)の廃藩置県で津山県となり、その後、北条県を経て、76年岡山県に編入された。

出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報

百科事典マイペディア 「津山藩」の意味・わかりやすい解説

津山藩【つやまはん】

美作(みまさか)国津山に藩庁をおいた。1603年外様(とざま)の森忠正(ただまさ)が美作1国18万6000石を与えられて入封し立藩。森氏断絶後,家門(かもん)の松平(越前)氏が入封,領知高は5万石〜10万石。津山城跡は国指定史跡。
→関連項目山中一揆美作国

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「津山藩」の意味・わかりやすい解説

津山藩
つやまはん

江戸時代,美作国 (岡山県) 津山地方を領有した藩。慶長8 (1603) 年に森忠政が信濃 (長野県) 川中島から 18万 6500石で入封,元禄 10 (97) 年の除封まで森氏が在封,森氏は再興して備中 (岡山県) 西江原へ移封,代って松平 (結城) 宣富が 10万石で新封,廃藩置県にいたった。松平氏は家門,江戸城大広間詰。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「津山藩」の解説

津山藩

美作国、津山(現:岡山県津山市)周辺を領有した藩。慶長年間、森忠政(森蘭丸の弟)が美作国18万6000石を与えられて入封、津山城を築き、城下町を整備した。森氏5代の衆利(あつとし)が乱心のため領地没収となり、後には家門の松平(越前)氏が入って幕末まで統治した。津山城(鶴山城)跡は国指定史跡。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の津山藩の言及

【津山[市]】より

…JR姫新線が通じ,津山線と因美線を分岐し,中国縦貫自動車道のほか国道53号,179号,181号線が通じる。【由比浜 省吾】
[津山城下]
 津山藩主森・松平両氏の城下町。1603年(慶長8)信濃国川中島13万7500石から美作一国18万6500石に移封された森忠政は,かつて守護館が設けられた美作の府院庄に仮城を構えたが,翌年要害の地鶴山を選んで城地と定め,16年(元和2)まで13年の歳月を費やして壮大な平山城を築いた。…

【松平氏】より

…一方忠直の長男光長は,父配流のとき越後高田25万石を与えられたが,越後騒動の結果1681年(天和1)所領を没収された。養子宣富の代98年(元禄11)美作津山10万石に封ぜられ,以後津山松平家と呼ばれる(津山藩)。越前家では,福井城主の忠昌系と,その兄忠直系の津山家との間で本家争いがある。…

※「津山藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android