改訂新版 世界大百科事典 「吉田兼煕」の意味・わかりやすい解説
吉田兼煕 (よしだかねひろ)
生没年:1348-1402(正平3・貞和4-応永9)
南北朝時代の公家,神道家。神祇大副,侍従,正三位。父は卜部兼豊(うらべかねとよ),父祖累代世襲の吉田神社祠官の職を継いだが,1375年(天授1・永和1)卜部宿禰姓を改めて卜部朝臣姓を賜り,86年(元中3・至徳3)従三位に叙せられて父祖の位階を越えて初めて公卿に列せられるなど,一家の地位を高め,神道吉田家の基礎を築いた。吉田という家名も兼煕が1378年もとの家名の室町を改めて初めて称したものといわれる。なお,吉田神道を大成した吉田兼俱(かねとも)は兼煕の玄孫にあたる。兼煕はまた92年(元中9・明徳3)足利義満の使として南朝の廷臣吉田宗房,阿野実為と南北朝合体の交渉にあたった。1366(正平21・貞治5),1371(建徳2・応安4)両年の日記が残り,兼敦,兼致,兼右の日記とともに《吉田家日次(ひなみ)記》という。
執筆者:近藤 成一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報