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吉田稔麿 よしだ としまろ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

吉田稔麿 よしだ-としまろ

1841-1864 幕末の武士。
天保(てんぽう)12年閏(うるう)1月24日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。松下村塾でまなぶ。吉田松陰の死後,脱藩して京都,江戸で尊攘(そんじょう)運動にくわわったが,元治(げんじ)元年6月5日池田屋事件で重傷をおい,自刃(じじん)した。24歳。名は秀実。字(あざな)は無逸。通称は別に栄太郎。変名は松村小介など。号は風萍軒。

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朝日日本歴史人物事典の解説

吉田稔麿

没年:元治1.6.5(1864.7.8)
生年:天保12.閏1.24(1841.3.16)
幕末の長州(萩)藩の志士。名は秀実,字は無逸。稔麿は通称で栄太郎とも称す。長州藩士雇吉田清内の子として萩に生まれる。安政3(1856)年,吉田松陰に師事し,高杉晋作,久坂玄瑞,入江九一と共に松門四天王と称された。無逸の名は,王道から逸れて放逸に走ることのないようにと,松陰より与えられたもの。安政5(1858)年,松陰の再獄に当たり免獄に奔走したため,謹慎組預けとなる。万延1(1860)年脱藩して江戸に行き,幕府旗本妻木田宮の用人となって江戸の情勢をうかがった。文久2(1862)年京都に出て,脱藩の罪を謝し許された。その後,幅広い交遊を生かして江戸,京都をはじめ諸藩を往来し,『東西不競密話』を著して政治的建策を行った。同3年,奇兵隊に入隊。7月士籍に列せられ,被差別部落の人々を兵士に登用するよう建策。その実施状況は不詳だが,これはのちの維新団や一新組へと結実していった。元治1(1864)年5月,上京して政治工作に当たる。同年6月5日,池田屋で諸藩の同志と会合中のところを新選組に襲われ,重囲を破って長州藩邸まで帰ったものの傷は重く,門外で自殺。年は24歳だった。<参考文献>来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』(復刻,1990)

(三宅紹宣)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

吉田稔麿
よしだとしまろ
(1841―1864)

幕末期の長州藩士。討幕派として活躍。諱(いみな)は秀実(ひでみ)。父は二人扶持(ぶち)の最下級士であった。吉田松陰(しょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)で学び、高杉晋作(しんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに、松下三秀という。師松陰が江戸へ送られたあと、その赦免に努める。松陰刑死後、脱藩して江戸、京都で活躍。帰藩後、1863年(文久3)に屠勇(とゆう)取立方を命ぜられ、被差別部落民による諸隊を組織する。翌年上京し、池田屋で同志と会合中、新選組に襲われ自刃。24歳。墓は、山口県萩(はぎ)市の俊光寺。[広田暢久]

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世界大百科事典内の吉田稔麿の言及

【池田屋事件】より

…志士たちは京都に潜入して画策するが,ひそかに武器を集めていた近江出身の古高俊太郎が新撰組に捕らえられるなど,きびしい情勢が切迫していた。翌64年6月5日,吉田稔麿,北添佶摩,宮部鼎蔵ら長州,土佐,熊本などの藩士20余人が池田屋に集まり蜂起の件を謀議中,近藤勇ら新撰組数十人が襲い激しい闘いとなった。尊攘派志士は,宮部,北添,吉田らの闘死をはじめとして,ほとんどが捕殺された。…

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