朝日日本歴史人物事典 「吉田稔麿」の解説
吉田稔麿
生年:天保12.閏1.24(1841.3.16)
幕末の長州(萩)藩の志士。名は秀実,字は無逸。稔麿は通称で栄太郎とも称す。長州藩士雇吉田清内の子として萩に生まれる。安政3(1856)年,吉田松陰に師事し,高杉晋作,久坂玄瑞,入江九一と共に松門四天王と称された。無逸の名は,王道から逸れて放逸に走ることのないようにと,松陰より与えられたもの。安政5(1858)年,松陰の再獄に当たり免獄に奔走したため,謹慎組預けとなる。万延1(1860)年脱藩して江戸に行き,幕府旗本妻木田宮の用人となって江戸の情勢をうかがった。文久2(1862)年京都に出て,脱藩の罪を謝し許された。その後,幅広い交遊を生かして江戸,京都をはじめ諸藩を往来し,『東西不競密話』を著して政治的建策を行った。同3年,奇兵隊に入隊。7月士籍に列せられ,被差別部落の人々を兵士に登用するよう建策。その実施状況は不詳だが,これはのちの維新団や一新組へと結実していった。元治1(1864)年5月,上京して政治工作に当たる。同年6月5日,池田屋で諸藩の同志と会合中のところを新選組に襲われ,重囲を破って長州藩邸まで帰ったものの傷は重く,門外で自殺。年は24歳だった。<参考文献>来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』(復刻,1990)
(三宅紹宣)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報