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久坂玄瑞 くさか げんずい

百科事典マイペディアの解説

久坂玄瑞【くさかげんずい】

幕末の長州萩藩士。通称義助(よしすけ)。父は藩医吉田松陰に学び,高杉晋作とともに松下村塾の双璧(そうへき)といわれた。1862年脱藩上京し,長州の藩論長井雅楽(うた)の航海遠略策に代表される公武合体から尊王攘夷(じょうい)路線に変えることに成功。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

久坂玄瑞 くさか-げんずい

1840-1864 幕末の武士。
天保(てんぽう)11年5月生まれ。久坂玄機の弟。生家は長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩医。松下村塾にまなび,吉田松陰の妹と結婚。文久2年高杉晋作らとイギリス公使館を焼き討ちし,3年下関外国船砲撃に参加するなど,尊攘(そんじょう)運動をすすめる。禁門の変で負傷し,元治(げんじ)元年7月19日自害。25歳。名は通武(みちたけ)。通称は義助。
【格言など】諸侯恃(たの)むに足らず,公卿恃むに足らず,草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し

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朝日日本歴史人物事典の解説

久坂玄瑞

没年:元治1.7.19(1864.8.20)
生年:天保11(1840)
幕末の長州(萩)藩士,尊攘派の志士。藩医久坂良迪の次男。兄玄機,父良迪の死に遭い,安政1(1854)年家督相続。同3年九州を遊学,月性,宮部鼎蔵から勧められ,5月吉田松陰の門下に入る。「久坂玄瑞,防長(長州藩)少年第一流人物」とは松陰の評。翌年松陰の妹文子と結婚。高杉晋作とならび松下村塾の双璧であった。翌5年学業修業のため江戸に出て村田蔵六(大村益次郎)に蘭学を学び翌年2月帰藩,5月江戸へ護送される松陰を送る。10月松陰が処刑されたのち,松下村塾生の結束を図る。翌万延1(1860)年江戸に出て蕃書調所の堀達之助の塾に入り,8月高杉らと共に小塚原の刑場に松陰の霊を祭った。薩摩,水戸,土佐の志士と交流を深め,次いで藩政府に働きかけ和宮降嫁と長井雅楽の公武合体運動の阻止を図るが失敗,命ぜられて文久1(1861)年10月帰藩。「諸侯恃むに足らず,公卿恃むに足らず,草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し」とはこのときの感慨。翌2年3月兵庫警衛の藩兵に加わり上京,攘夷の挙兵計画を進めるが,薩摩の同志が島津久光に弾圧され(寺田屋事件)て中止。以来,周布政之助,前田孫右衛門ら藩庁首脳部に接近,藩論を尊王攘夷に転換させることに尽力し成功。このときに呈出した「回瀾条議」「解腕痴言」は,長州藩尊王攘夷運動の方針を定めた。次いで江戸へ,12月高杉晋作らと共に御殿山に新築中の英公使館を焼打ちにする。翌3年上洛,尊攘運動を指導,士格を上げられて大組となる。次いで下関に赴き,同5月アメリカ船砲撃を指揮,再び上洛して大和行幸を計画したが8月18日の政変により挫折。9月政務役に任命され藩政の要路に立ち,京と山口の間を往復。折から藩内には武力上洛論と割拠論との対立があり,前者に圧されるまま元治1(1864)年6月出動の長州藩兵を率いて洛南の山崎に布陣。武力入洛には慎重論を唱えたが,来島又兵衛,真木保臣(和泉)らの強硬論に屈し出撃,禁門の変に敗れ鷹司邸に自刃した。25歳。<参考文献>福本義亮『松下村塾偉人 久坂玄瑞』(のち『久坂玄瑞全集』と改題)

(井上勲)

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防府市歴史用語集の解説

久坂玄瑞

萩の医者の家に生まれ、松下村塾[しょうかそんじゅく]で学び、高杉晋作[たかすぎしんさく]と一二を争う秀才で常に攘夷の先頭にたっていました。1864年(元治元年)の禁門の変[きんもんのへん](蛤御門の変[はまぐりごもんのへん])で戦死しました。

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世界大百科事典 第2版の解説

くさかげんずい【久坂玄瑞】

1840‐64(天保11‐元治1)
幕末期長州藩の志士。名は通武,義助(よしすけ)と称する。玄瑞は号。家は藩医。吉田松陰の門下で,才を評価され,頭角を現す。1862年(文久2)公武合体路線に行き詰まった藩論が,尊王攘夷路線へ転換する際に下工作を行い,登用された。その後,御殿山イギリス公使館焼打ちや,下関外国艦隊砲撃事件に活躍したが,64年(元治1)の禁門の変に参戦し,負傷して自刃した。【井上 勝生】

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大辞林 第三版の解説

くさかげんずい【久坂玄瑞】

1840~1864) 幕末の長州藩士。名は通武。通称、義助。吉田松陰の妹婿。松下村塾に学ぶ。藩論を公武合体から尊攘論に統一。イギリス公使館焼き打ち、下関外国船砲撃事件に加わる。禁門の変を指導して負傷、自殺した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

久坂玄瑞
くさかげんずい

[生]天保11(1840).長州,萩
[没]元治1(1864).7.19. 京都
江戸時代末期の勤王家。長州藩士。名は通武,のち義助。吉田松陰に学び,松陰に愛されてその妹と結婚し,高杉晋作とともに松下村塾の逸材とみなされた。松陰の死後,尊王攘夷運動に丁身し,広く諸藩の志士たちとも交わった。長州藩の藩論が長井雅楽の『航海遠略策』による公武合体論に傾いたおり,文久2 (1862) 年春,脱藩上京して宮廷を動かし,藩論を尊攘論に統一するという働きもした。その後帰藩,元治1 (64) 年,真木和泉 (保臣) ,来島又兵衛らと藩兵を率い上京,入京を嘆願したが朝廷,江戸幕府にいれられず,彼は自重論を説いたが,真木らの強硬論に押され禁門の変 (蛤御門の変) の戦いに加わり,負傷して自刃した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

久坂玄瑞
くさかげんずい
(1840―1864)

幕末の長州藩士。名は通武(みちたけ)、のち義助(よしすけ)。号は江月斎、玄瑞。容貌(ようぼう)から同志に禿頭和尚(とくとうおしょう)ともよばれた。貧禄(ひんろく)の藩医に生まれたが、国事を論ずる吉田松陰(しょういん)に師事して松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、高杉晋作(しんさく)の識、玄瑞の才と並び称され、松陰の妹を妻とした。やがて日米修好通商条約を締結、安政(あんせい)の大獄を引き起こした幕政を批判し、他藩の志士と交わる。長州藩が長井雅楽(ながいうた)の幕府寄りの公武合体政策、航海遠略策を採択したため、これを激しく弾劾し、1862年(文久2)には同志と長井暗殺をも企てた。このころ「尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」と述べ、尊王攘夷(じょうい)の激派の運動の先頭にたち、朝廷に入説した。攘夷督促の勅使東下には自らも江戸へ赴き、イギリス公使館焼打事件を高杉らと起こした。1863年、攘夷実行の下関外国艦隊砲撃事件に参加し、八月十八日の政変による長州藩勢力の京都追放後も京都に潜入して木戸孝允(たかよし)らとともに失地回復に努めた。1864年(元治1)、禁門の変に参加、指導部にあって自重、後続の軍を待つ作戦を主張したが、進発論に押し切られ、一軍を指揮するうちに膝(ひざ)に弾丸を受けて鷹司(たかつかさ)邸内に自刃した。[井上勝生]
『福本義亮編『久坂玄瑞全集』(1978・マツノ書店)』

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世界大百科事典内の久坂玄瑞の言及

【禁門の変】より

…さらに6月に池田屋事件で志士が斬殺され,長州藩内で,一気に進発論が勝利を占めた。国司信濃・福原越後・益田弾正の3家老に,来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉らが同行して先発し,世子毛利定広の本隊が後続した。先発隊は,山崎,伏見,嵯峨に分駐し,七卿や藩主の免罪などを上表したが入れられず,かえって幕府の征長令の発令工作が進んでいた。…

※「久坂玄瑞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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