松下村塾(読み)しょうかそんじゅく

精選版 日本国語大辞典 「松下村塾」の意味・読み・例文・類語

しょうかそん‐じゅく【松下村塾】

幕末維新期、山口県萩市松本にあった私塾。安政二年(一八五五)、出獄した吉田松陰が叔父の塾を受け継いで有名になる。門人に久坂玄瑞高杉晉作伊藤博文品川彌二郎などがいた。今もその遺構がある。

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デジタル大辞泉 「松下村塾」の意味・読み・例文・類語

しょうかそん‐じゅく【松下村塾】

江戸末期、長門ながとにあった私塾。吉田松陰の叔父玉木文之進の家塾を、安政3年(1856)から松陰が主宰し、高杉晋作伊藤博文明治維新に活躍した多くの人材を養成。平成27年(2015)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産文化遺産)に登録された。

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改訂新版 世界大百科事典 「松下村塾」の意味・わかりやすい解説

松下村塾 (しょうかそんじゅく)

幕末に長州の萩城下東郊松本村にあった私塾で,吉田松陰が尊攘の志士,維新の元勲を育てたことで知られる。はじめは松陰の叔父玉木文之進の塾で,その名を外叔久保五郎左衛門が継いでいた。1855年(安政2)暮れに松陰が出獄して実父の杉百合之助の家に預けられ,その幽室で近親者に講義を始めると,久保塾の門人もこちらに流れ込み,これがすなわち松下村塾とみなされるようになった。出獄直後に講じたのが《孟子》で,これは56年《講孟余話》としてまとまった。続いて講じたのが《武教全書》で,同年に《武教全書講録》ができあがった。松下村塾の双璧とみなされる久坂玄瑞高杉晋作が入門したのは57年と思われる。この年,松陰は獄中で知り合った富永有隣が出獄したのを迎えて松下村塾の師とした。杉家宅地内にあった小屋を修補して塾舎としたのもこの年である。これには久保も協力し,表向きの塾主は久保だが事実上の主宰者は松陰という形が確定した。講義内容は時事に及ぶことが多く,それが若者たちを引きつけた。58年に塾生が増加したので塾舎を拡張し,また藩から家学教授の許可を得た。松下村塾は最盛期に達し,その名前は全国的に知られるようになった。日米修好通商条約をめぐる問題(条約勅許問題)が大詰めにきたので,松陰も強く刺激されて各種の対策案をつくり,塾生もしだいに政治活動に引きこまれるようになった。赤根武人を亡命させて伏見の獄を破るという策を立てたのは,その代表例である。松陰の思想・行動の過激化に驚いた藩政府は同年末彼を再投獄したので,松陰が直接指導する松下村塾はそこで終わったが,塾そのものは叔父の玉木や兄の杉梅太郎が維持して1890年代まで存続した。塾舎は現在萩の松陰神社社域を構成している。松陰直弟子のうち明治の元勲となった代表的人物が伊藤博文と山県有朋であるが,維新前後に非命に倒れた人の多いことも忘れてはならない。
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日本歴史地名大系 「松下村塾」の解説

松下村塾
しようかそんじゆく

[現在地名]萩市大字椿東 椎原

松陰しよういん神社境内にある吉田松陰の私塾。国指定史跡。

松下村塾は、天保一三年(一八四二)松陰の叔父玉木文之進が自宅に開講したのに始まる。のち伯父の久保五郎左衛門(松陰の養母の義兄)が塾名を継ぎ、子弟教育に当たった。吉田松陰は、安政元年(一八五四)伊豆下田しもだ(現静岡県下田市)に停泊中のアメリカ軍艦で渡航を企て失敗し、幽囚の身となったが、五郎左衛門は松陰に力を貸し、松陰の実家杉家の宅地内にあった小舎を修理し、八畳の一室を設けて塾名を松陰に譲った。

松陰を慕って集まる門弟がしだいに多くなったため、安政五年門弟の力によって一〇畳半を増築し、藩から家学教育の許可を得て正式に塾の主宰者となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松下村塾」の意味・わかりやすい解説

松下村塾
しょうかそんじゅく

幕末期、長州藩萩(はぎ)町(山口県萩市)に開設された私塾。吉田松陰(しょういん)が主宰し、明治維新の志士を輩出したことで有名。1843年(天保14)ころ松陰の叔父玉木文之進(ぶんのしん)が自宅に開設したものであるが、文之進の任官とともに中断していた。しかし、1856年(安政3)出獄して自宅謹慎中の松陰が近隣の子弟に兵学を講義するようになると、当時玉木から久保清太郎に移っていた松下村塾(隣家であった)と合体し、1857年には松陰が主宰者となった。1858年には塾生が数十名となったので、庭内に師弟協力して1棟を増築した。このころ、富永有隣(ゆうりん)が出獄し、同塾で一時教えたこともある。

 ここでの松陰の教育は、かつて藩校明倫館(めいりんかん)で教えたような、知識を広め見識を高めるだけのものではなかった。兵学講義のなかに、現実の政治状勢(外国の侵略)に対応できる軍事知識と識見を注入した。1858年、都濃(つの)郡戸田(へた)村(周南(しゅうなん)市)から青年26名が来塾し、塾生とともに銃陣の稽古(けいこ)をしたのは、軍事知識と軍事教練を習得するためであった。また同年、老中間部詮勝(まなべあきかつ)を要撃しようとした計画は、外圧に屈した幕府を覚醒(かくせい)させるためであった。このように、松陰の教育は学問と実践が表裏一体をなすものであり、ここに松下村塾教育の特徴があった。しかし、同年末に松陰は安政(あんせい)の大獄に連座して再入獄し、翌1859年江戸に送られて刑死する。このため同塾は閉鎖されるが、門人からは高杉晋作(しんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤博文(ひろぶみ)、山県有朋(ありとも)、前原一誠(いっせい)など多くの志士が輩出した。

[広田暢久]

 2015年(平成27)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産の文化遺産に登録された。

[編集部]


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知恵蔵 「松下村塾」の解説

松下村塾

幕末に、吉田松陰が松本村(現在の山口県萩市)で主宰した私塾。塾生やその門下に、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、伊藤博文など明治維新の功労者や元勲を輩出したことで知られる。
松下村塾の前身は、長州藩士で兵学者だった松陰の叔父が開講。松陰も幼少期にこれに学んだ。松陰は長じて藩校明倫館で教鞭(きょうべん)を執るが、脱藩して東北地方などに遊学。1854年に伊豆・下田で、再来したペリー提督の黒船で密航を企てたが、失敗して長州に戻され獄につながれた。翌55年からは生家での幽閉となり、一室で近隣の者に講義を始めた。松下村塾の名を継ぐと共に、受講者の増加に伴い57年に生家隣の小屋を改装、増築した。これが、後に同地に建立された松陰神社境内に、今も残る塾舎である。藩校が正規の武士の子弟以外入学できなかったのに対して、松下村塾は下級の家臣や町人など身分にかかわらず塾生として受け入れた。この時教えを受けたのが、「松門四天王」と呼ばれる久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ)、入江九一(くいち)を始めとする塾生である。更に、「松門四天王」のそれぞれの門下には、伊藤博文、山県有朋らが並び、桂小五郎(木戸孝允)や井上馨(かおる)にも大きな影響を与えた。松陰の唱える尊皇攘夷(じょうい)を思想的な軸に、儒学や兵学、史学などが広く教授され、講義だけでなく師弟や塾生が活発に議論も行ったという。松陰は58年の安政の大獄に連座し、59年に捕らえられて刑死するが、多くの塾生が短期間に育った。松下村塾は久坂玄瑞らにより引き継がれるが、門下生らは京都や江戸で倒幕や尊皇の運動に身を挺(てい)するようになり、数年後には閉鎖となる。その後何度か再開と閉鎖を繰り返すが、官職を辞した松陰の実兄、杉民治が80年ごろ再興。漢学を中心とした教育を行い、近代学校制度の整う90年前後まで続いた。

(金谷俊秀 ライター/2015年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松下村塾」の意味・わかりやすい解説

松下村塾
しょうかそんじゅく

幕末期に長門国萩の松本村(→山口県萩市)にあった私塾。安政3(1856)年,萩の野山獄を出獄後,謹慎を命じられた吉田松陰が叔父玉木文之進の跡を継いで実家で講義を始め,同 4年小屋を修理して塾舎とした。同 5年には増築するほど塾生が増え,長州藩によって公認されたが,同 5年12月,幕府政治を批判したとして松陰が再び投獄され,塾は閉鎖された。長州藩尊攘討幕派(→尊王攘夷運動)の中心として,藩校明倫館に対し独自の位置を占め,高杉晋作久坂玄瑞,佐世八十郎(前原一誠),品川弥二郎,山県小輔(山県有朋),伊藤俊輔(伊藤博文)ら,幕末維新期(→明治維新)に活躍する多くの人物が輩出した。木造,平家建て,瓦ぶき,8畳,10畳の 2間からなる塾の建物は,1907年創建の松陰神社境内に保存されている。国の史跡で,2015年「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」の一つとして世界遺産の文化遺産に登録された。

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百科事典マイペディア 「松下村塾」の意味・わかりやすい解説

松下村塾【しょうかそんじゅく】

幕末の長州萩城外の松本村に吉田松陰の叔父玉木文之進が興した私塾(国指定史跡)。幼時そこに学んだ松陰が1854年海外密航に失敗し,自宅幽閉となって主宰者となるや,門下に下士の子弟を中心とする俊才が集まり,久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文山県有朋らが育ち尊攘(そんじょう)派の拠点となった。2015年,〈明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業〉の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録。
→関連項目私塾品川弥二郎萩[市]

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国指定史跡ガイド 「松下村塾」の解説

しょうかそんじゅく【松下村塾】


山口県萩市椿東(ちんとう)にある私塾跡。松下村塾は、吉田松陰の叔父・玉木文之進が自宅で開いた私塾で、ついで久保五郎左衛門がその名を継承し、子弟の教育にあたった。松陰もここで指導を受け、11歳のときには藩主・毛利慶親への御前講義を行い、才能が認められた。その後、西洋兵学を学ぶため九州に遊学し、ついで江戸で佐久間象山に師事した。1853年(嘉永6)のペリー来航の折には黒船を視察し、外国留学を決意するようになった。そして翌年、密航を企てたが失敗し、1855年(安政2)に釈放されて、実父・杉百合之助預かりとなった。幽囚の室で門下生に講義を始めていた松陰が、1857年(安政4)11月これを継ぎ、主宰した。松下村塾は木造瓦葺き平屋建て、当初からあった8畳1室と、後に増築した10畳半の部分からなる。松陰が長州藩から家学教育の許可を得て名実ともに松下村塾の主宰者になったのは1858年(安政5)7月であるが、同年11月、松陰はふたたび一室に幽囚され、続いて再入獄となった。松陰はこの私塾で2年半余り、塾生の身分や階級にとらわれず、兵学・漢学・歴史・地理・国学など多方面にわたる教育を行い、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、伊藤博文などの逸材を輩出した。1922年(大正11)に国の史跡に指定された。松陰神社境内に、松下村塾と吉田松陰幽囚の旧宅が並んでいる。南に徒歩約5分のところに伊藤博文旧宅がある。JR山陰本線萩駅からコミュニティバス「松陰神社前」下車、徒歩すぐ。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「松下村塾」の解説

松下村塾
しょうかそんじゅく

1842年(天保13)長門国萩城下松本村(現,山口県萩市)に開設された漢学私塾。はじめは吉田松陰(しょういん)の叔父玉木文之進の,ついで久保五郎左衛門の家塾。54年(安政元)海外渡航未遂事件で投獄された吉田松陰が,出獄後に56年から主宰者となった。翌年塾舎を建て,58年藩公認。対象は庶民・下級士族だが,松陰をしたって入門者が増えた。アメリカとの条約調印問題発生頃から松陰および門下は過激な政治行動に傾き,藩当局は松陰を再投獄し塾をきびしく監視,一時廃絶状態となった。69年(明治2)玉木文之進が再び経営指導したが,76年文之進の自殺により閉鎖。80年杉民治が再開し,92年頃まで存続。1900年建物の改修が行われた。国史跡。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

防府市歴史用語集 「松下村塾」の解説

松下村塾

もとは、吉田松陰[よしだしょういん]のおじが作った塾でしたが、松陰が先生として教えて評判となり、高杉晋作[たかすぎしんさく]や久坂玄瑞[くさかげんずい]らをはじめとした多くの若者たちが集まりました。建物は現在、萩市の松陰神社[しょういんじんじゃ]に移され、国の史跡に指定されています。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「松下村塾」の解説

松下村塾
しょうかそんじゅく

幕末,長州(山口県)萩にあった吉田松陰の私塾
松陰が叔父の塾を受け継ぎ,1857年自邸内に開き,熱烈な尊王攘夷思想で子弟を教育した。久坂玄瑞 (くさかげんずい) ・高杉晋作・伊藤博文らの門下生を出し,明治維新に与えた影響が大きい。

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世界大百科事典(旧版)内の松下村塾の言及

【玉木文之進】より

松下村塾の創立者。長州藩士杉常徳の三男で,吉田松陰の叔父に当たる。…

【吉田松陰】より

…他人との接触は禁じられていたが,近隣の子弟で来たり学ぶものが多く,幽室が塾と化した。玉木文之進が始めた松下村塾は外叔の久保五郎左衛門に受け継がれていたが,そこの門弟で松陰のもとに来るものが増えたため,いつしか松陰が松下村塾の主宰者とみなされるようになった。評判が高まるにつれて萩の城下から通うものも現れた。…

※「松下村塾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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