幕末に長州の萩城下東郊松本村にあった私塾で,吉田松陰が尊攘の志士,維新の元勲を育てたことで知られる。はじめは松陰の叔父玉木文之進の塾で,その名を外叔久保五郎左衛門が継いでいた。1855年(安政2)暮れに松陰が出獄して実父の杉百合之助の家に預けられ,その幽室で近親者に講義を始めると,久保塾の門人もこちらに流れ込み,これがすなわち松下村塾とみなされるようになった。出獄直後に講じたのが《孟子》で,これは56年《講孟余話》としてまとまった。続いて講じたのが《武教全書》で,同年に《武教全書講録》ができあがった。松下村塾の双璧とみなされる久坂玄瑞と高杉晋作が入門したのは57年と思われる。この年,松陰は獄中で知り合った富永有隣が出獄したのを迎えて松下村塾の師とした。杉家宅地内にあった小屋を修補して塾舎としたのもこの年である。これには久保も協力し,表向きの塾主は久保だが事実上の主宰者は松陰という形が確定した。講義内容は時事に及ぶことが多く,それが若者たちを引きつけた。58年に塾生が増加したので塾舎を拡張し,また藩から家学教授の許可を得た。松下村塾は最盛期に達し,その名前は全国的に知られるようになった。日米修好通商条約をめぐる問題(条約勅許問題)が大詰めにきたので,松陰も強く刺激されて各種の対策案をつくり,塾生もしだいに政治活動に引きこまれるようになった。赤根武人を亡命させて伏見の獄を破るという策を立てたのは,その代表例である。松陰の思想・行動の過激化に驚いた藩政府は同年末彼を再投獄したので,松陰が直接指導する松下村塾はそこで終わったが,塾そのものは叔父の玉木や兄の杉梅太郎が維持して1890年代まで存続した。塾舎は現在萩の松陰神社社域を構成している。松陰直弟子のうち明治の元勲となった代表的人物が伊藤博文と山県有朋であるが,維新前後に非命に倒れた人の多いことも忘れてはならない。
執筆者:松浦 玲
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松下村塾は、天保一三年(一八四二)松陰の叔父玉木文之進が自宅に開講したのに始まる。のち伯父の久保五郎左衛門(松陰の養母の義兄)が塾名を継ぎ、子弟教育に当たった。吉田松陰は、安政元年(一八五四)伊豆
松陰を慕って集まる門弟がしだいに多くなったため、安政五年門弟の力によって一〇畳半を増築し、藩から家学教育の許可を得て正式に塾の主宰者となった。
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幕末期、長州藩萩(はぎ)町(山口県萩市)に開設された私塾。吉田松陰(しょういん)が主宰し、明治維新の志士を輩出したことで有名。1843年(天保14)ころ松陰の叔父玉木文之進(ぶんのしん)が自宅に開設したものであるが、文之進の任官とともに中断していた。しかし、1856年(安政3)出獄して自宅謹慎中の松陰が近隣の子弟に兵学を講義するようになると、当時玉木から久保清太郎に移っていた松下村塾(隣家であった)と合体し、1857年には松陰が主宰者となった。1858年には塾生が数十名となったので、庭内に師弟協力して1棟を増築した。このころ、富永有隣(ゆうりん)が出獄し、同塾で一時教えたこともある。
ここでの松陰の教育は、かつて藩校明倫館(めいりんかん)で教えたような、知識を広め見識を高めるだけのものではなかった。兵学講義のなかに、現実の政治状勢(外国の侵略)に対応できる軍事知識と識見を注入した。1858年、都濃(つの)郡戸田(へた)村(周南(しゅうなん)市)から青年26名が来塾し、塾生とともに銃陣の稽古(けいこ)をしたのは、軍事知識と軍事教練を習得するためであった。また同年、老中間部詮勝(まなべあきかつ)を要撃しようとした計画は、外圧に屈した幕府を覚醒(かくせい)させるためであった。このように、松陰の教育は学問と実践が表裏一体をなすものであり、ここに松下村塾教育の特徴があった。しかし、同年末に松陰は安政(あんせい)の大獄に連座して再入獄し、翌1859年江戸に送られて刑死する。このため同塾は閉鎖されるが、門人からは高杉晋作(しんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤博文(ひろぶみ)、山県有朋(ありとも)、前原一誠(いっせい)など多くの志士が輩出した。
[広田暢久]
2015年(平成27)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産の文化遺産に登録された。
[編集部]
(金谷俊秀 ライター/2015年)
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1842年(天保13)長門国萩城下松本村(現,山口県萩市)に開設された漢学私塾。はじめは吉田松陰(しょういん)の叔父玉木文之進の,ついで久保五郎左衛門の家塾。54年(安政元)海外渡航未遂事件で投獄された吉田松陰が,出獄後に56年から主宰者となった。翌年塾舎を建て,58年藩公認。対象は庶民・下級士族だが,松陰をしたって入門者が増えた。アメリカとの条約調印問題発生頃から松陰および門下は過激な政治行動に傾き,藩当局は松陰を再投獄し塾をきびしく監視,一時廃絶状態となった。69年(明治2)玉木文之進が再び経営指導したが,76年文之進の自殺により閉鎖。80年杉民治が再開し,92年頃まで存続。1900年建物の改修が行われた。国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…他人との接触は禁じられていたが,近隣の子弟で来たり学ぶものが多く,幽室が塾と化した。玉木文之進が始めた松下村塾は外叔の久保五郎左衛門に受け継がれていたが,そこの門弟で松陰のもとに来るものが増えたため,いつしか松陰が松下村塾の主宰者とみなされるようになった。評判が高まるにつれて萩の城下から通うものも現れた。…
※「松下村塾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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