吉田経俊(読み)よしだ・つねとし

朝日日本歴史人物事典 「吉田経俊」の解説

吉田経俊

没年建治2.10.18(1276.11.25)
生年建保2(1214)
鎌倉時代中期の公卿。参議資経の次男。母は宮内卿藤原親綱の娘。嘉禄1(1225)年に叙爵。はじめ官位はなかなか進まず,仁治3(1242)年,29歳にしてようやく五位蔵人に任じた(同母兄為経はこの年齢ですでに権中納言であった)。後嵯峨院政が開始されると,これに仕えて官も順調に進み,建長6(1254)年に左大弁,翌年蔵人頭。康元1(1256)年に為経が没すると,そのあとを継いで伝奏,評定衆となり,和泉国を知行する。翌々年参議となって公卿に列し,弘長2(1262)年に権中納言,文永8(1271)年中納言となる。この間常に後嵯峨上皇の側近として活躍。日記『吉黄記』がある。

(本郷和人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉田経俊」の解説

吉田経俊 よしだ-つねとし

1214-1276 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
建保(けんぽ)2年生まれ。藤原資経(すけつね)の次男。母は藤原親綱(ちかつな)の娘。正嘉(しょうか)2年参議,のち権中納言兼大宰権帥(だざいのごんそち)をへて正二位,中納言兼治部卿。建治(けんじ)2年10月18日死去。63歳。日記に「経俊卿記」(「吉黄記」)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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