吉祥院跡(読み)きつしよういんあと

日本歴史地名大系 「吉祥院跡」の解説

吉祥院跡
きつしよういんあと

[現在地名]網野町字仲禅寺 中の坊

大正年間(一九一二―二六)まで仲禅寺ちゆうぜんじ集落の谷奥、西側山麓にあった真言宗寺院。山号中央山。

初め仲禅寺と号した。「仲禅寺開闢元来之事」(「竹野郡誌」所引)に和銅六年(七一三)智証大師の開基と記し、また宇川上山寺年代目録(「竹野郡誌」所引)によれば天安二年(八五八)天台座主智証大師の創建、永禄六年(一五六三)閏一二月晦日夜、寺中より出火し、文明一三年(一四八一)造の仁王尊のみを残して堂宇焼失、その後元和一〇年(一六二四)宥弁が中興したという。「丹哥府志」は吉祥院一院のみが焼け残り、また宥弁中興の際真言宗に改宗したという。寺号の改称もこの頃と思われ、天和二年(一六八二)の丹後国寺社帳には真言宗吉祥院とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

乞巧奠〈公事十二ケ月絵巻〉〘 名詞 〙 陰暦七月七日の行事。乞巧は技工、芸能の上達を願う祭。もと中国の行事であるが、日本でも奈良時代以来、宮中の節会(せちえ)としてとり入れられ、在来の棚機津女(たなば...

乞巧奠の用語解説を読む