日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉野太夫」の意味・わかりやすい解説 吉野太夫よしのだゆう 江戸時代、京都の遊廓(ゆうかく)島原の遊女。吉野太夫を名のった者は時代を前後して数人以上みられ、そのうち灰屋紹益(しょうえき)(佐野重孝(しげたか))の妻になった者は有名。彼女は1606年(慶長11)3月、京都・大仏に生まれる。六条柳町の下ノ町の傾城(けいせい)屋林与次兵衛家の太夫となり、名声を博した。1643年(寛永20)8月に死去し、その墓は京都・鷹峯(たかがみね)の常照寺にある。なお、彼女の好んだ、茶席にみられる丸窓の吉野窓、名物裂(めいぶつぎれ)の一つである吉野間道(かんとう)にその名が残っている。[芳井敬郎] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by
367日誕生日大事典 「吉野太夫」の解説 吉野太夫 (よしのだゆう) 生年月日:1606年3月3日江戸時代前期の女性。京都の遊女1643年没 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by
世界大百科事典(旧版)内の吉野太夫の言及 【吉野】より …もっとも《吉野伝》によると吉野を名乗る太夫は,江戸時代初期に限っても,10人以上いたという。なかでも有名なのは,六条柳町の林与兵衛家の2代目吉野太夫徳子(1606‐43)である。彼女は,京都の方広寺大仏の近くで生まれたという。… ※「吉野太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」 Sponserd by