仏像のうち特に巨大なものを大仏という。紀元1世紀ころ,北西インドのガンダーラおよび中インドのマトゥラーで,初めて仏陀釈迦の像が造られた。それは仏陀一代の生涯を物語る仏伝図にまず現れた。仏陀は群衆の中で説法する姿で表現され,その像容は群衆のそれとほとんど変わらないものであった。しかししだいに,ひと目見ればこれが仏陀であるとわかるような,際立って大きな表現がとられるようになった。ここに仏陀存在の強調と誇張が始まったのである。同時に斜めを正面とする姿勢から,仏陀のみ真正面を向く姿勢へと変化し,座勢がとられるようになった。これは仏伝形式から礼拝像形式への変貌であり,独尊像も生まれてきた。一方,仏像の出現前にすでに仏陀釈迦が常人でないことを強調する思想は生まれていた。本生譚(ほんじようたん)(ジャータカ)のほかに仏身の種々の特徴が,三十二相,八十種好と数えられ列挙されていた。これは仏陀観の大きな変化であり,神格化でもあった。
この,釈迦を絶対化し,かつその相好を理想化する思想が存在するところに,従来まったく禁忌されてきた〈仏像〉がその禁をのがれて出現したとき,その思想と造形とが容易に結びつき,急速な発展があったものと考えられる。梵本を欠くが,5世紀に成立した《観無量寿経》は,阿弥陀仏の身高を〈六十万億那由他恒河沙由旬〉と記し,その正確な数量は不明であるが,天文学的な数量を示す。また仏陀の身高は最小でも丈六,すなわち立像で1丈6尺(4.8m),座像ではその1/2の8尺である。この経典にみられる巨大な仏身観の成立は,すでに巨像の出現があって,これをさらに誇大に表現したとも考えられるが,仏陀を神格化し,理想化した仏身観という思想的背景の成立のないところに造像は生まれえないということもできるだろう。
大仏とは像高が丈六以上ある仏,菩薩像の総称であるが,これには石造,塑造,銅造,木造などがあり,像容には立像,座像,倚像,臥像の種類がある。日本に現存する銅造大仏としては,東大寺金堂(大仏殿)安置の銅造毘盧舎那仏座像(奈良大仏)が最も名高い。聖武天皇は743年(天平15)にその造立を発願し,752年(天平勝宝4)に開眼をみた(大仏開眼)。像高5丈3尺と称されるが,現在の像高は1485cm。855年(斉衡2)の地震で頭部が落下したが,861年(貞観3)修理完成した。1180年(治承4)には平重衡の兵火で,頭部や手が損傷,この修理には重源が勧進職につき,宋人陳和卿らによって修復され,1185年(文治1)開眼された。しかし1567年(永禄10)松永久秀の兵火で大きな損傷をうけ,元亀・天正年間(1570-92)に大規模な修理をうけた。1691年(元禄4)に頭部が公慶上人によって鋳造されて,今日に至っている。ほかに,鎌倉高徳院の阿弥陀如来座像(鎌倉大仏)が名高く,《吾妻鏡》は1252年(建長4)の鋳造と伝え,像高は1150cmある。また,大和の飛鳥(あすか)寺の飛鳥大仏は,丈六の銅造釈迦如来座像で,破損ははなはだしく,後年に補修された部分が多いが,なお面相には遠く飛鳥仏の特色がみられ,606年(推古14)仏師鞍作止利(くらつくりのとり)が造って元興(がんごう)寺に安置したという仏像ではないかと考えられている。
塑像では岡寺の弥勒菩薩座像や当麻(たいま)寺金堂の弥勒仏座像が大像として知られている。乾漆像では唐招提寺の盧舎那仏座像,千手観音立像,薬師如来立像,あるいは東大寺法華堂の不空羂索観音立像,梵天,帝釈,金剛力士,四天王像などいずれも300cmをこす大像である。木造では奈良長谷寺の十一面観音立像が知られる。
なお,現存しないが,豊臣秀吉が造った京都の方広寺大仏(東山大仏)も史上名高い。この大仏と壮大な大仏殿は,現在の京都国立博物館(東山区東山七条)の場所に,天下人秀吉の権勢を示すべく,10年の歳月と莫大な費用をかけて1595年(文禄4)に完成した。この工事初期の1588年(天正16),秀吉は刀狩令を発し,諸国の百姓に刀,脇差,弓,槍,鉄砲などすべての武器の提出を命じ,集めた武器は鋳つぶして,万民利生のためにこの大仏鋳造に当てると述べたことは有名である。だが,完成した大仏は乾漆像で,しかも翌1596年(慶長1)の慶長大地震で倒壊した。大仏再建の秀吉の遺志は秀頼・淀君にひきつがれ,その後十数年間,今度は唐銅(金銅)製で再造工事が続いた。併せて大仏殿も再建され,この工事のため,大坂城中に太閤がのこした大金塊は,つぎつぎと大判に鋳かえられて湯水のごとく費やされた。〈大仏大判〉の名が当時世に流布したのはこのためである。だが,豊家の威信を賭けた大仏再建は,その落慶のとき,〈国家安康・君臣豊楽〉の文句をもつ鐘銘が,大坂冬の陣開幕の起因となり,皮肉にも大仏再建がそのまま豊家滅亡の墓穴となった。豊家滅亡後も,秀頼再建の大仏は残されて京都の名所となったが,1662年(寛文2)の大地震で倒壊し,大仏の唐銅で銭貨が鋳られた。
これらの大像はもとより中国における巨像造立の影響を受けたことはまぎれもない事実であり,敦煌莫高窟の南大仏・北大仏と称される2像や,雲岡石窟の北魏文成帝のときに造られた巨大な石仏は現在ものこり,竜門石窟にも北魏時代から唐代にかけて彫刻された大仏が現存する。この中国の大仏もアフガニスタンのバーミヤーンの石仏などの影響を受けたものである。インドにおいてはアジャンター第26窟の約700cmの像など,大仏像は臥像すなわち釈迦涅槃像に多くみられる。スリランカのポロンナルワ遺跡の大涅槃仏はグプタ様式を受けつぐものであり,時代は新しいがミャンマーのペグーの大涅槃像など,東南アジア各地でも大仏は造立されている。
→仏像
執筆者:光森 正士+藤井 学
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巨大な仏像。普通、像高が丈六(約4.8メートル)、坐像(ざぞう)では半分の8尺以上ある仏像の総称。石造、塑造、銅造、木造などがあるが、大きさの関係から石仏が多く、像容には立像、坐像、倚(い)像、臥(が)像などがある。早くからインドなどでつくられ、法顕や玄奘(げんじょう)の旅行記にも各地の大仏についての記事がみられる。インドのカシア(クシナガラ)の涅槃(ねはん)像(7メートル)、カーンヘリー石窟(せっくつ)の立像(7メートル)、アフガニスタンではバーミアンの磨崖(まがい)仏(摩崖仏)2体(38メートル、55メートル)が著名である。ただし、バーミアンの大仏2体は2001年タリバン政権により破壊され失われた。ミャンマーにも40メートルの巨像があるなど東南アジア各地でつくられている。中国でもきわめて多く、50メートルの像が敦煌(とんこう)でつくられたと記録にある。現存する敦煌莫高窟(ばっこうくつ)の南大仏・北大仏の2像、雲崗(うんこう)石窟の北魏(ほくぎ)時代造像の石仏、竜門石窟の北魏から唐代にかけてつくられた大仏、麦積山(ばくせきざん)の石仏などが知られている。朝鮮半島にも灌燭寺(かんしょくじ)、金山寺(きんざんじ)の弥勒(みろく)仏がある。
日本では東大寺の銅造盧遮那仏(るしゃなぶつ)坐像(奈良の大仏、約15メートル、8世紀、国宝)、高徳院の銅造阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像(鎌倉の大仏、約11.5メートル、13世紀、国宝)、奈良県長谷寺(はせでら)の木造十一面観音(かんのん)立像(約8メートル、16世紀)、京都方広寺の乾漆盧遮那仏像(京都大仏、現存せず、当初24メートル、16世紀末)などがよく知られ、そのほか各地に「何々大仏」と俗称される像がある。たとえば大分県下に散在するもの、栃木県の大谷(おおや)磨崖仏なども大仏としての大きさを備えている。大仏造立の意図は、存在の強調で仏の偉大さを表現し、また遠くからの礼拝(らいはい)も可能にするなど、仏の守護が遠くに及ぶようにとの意もあり、かつ造立者の権力誇示に役だてたと推測される。なお東大寺の大仏に加えて、河内(かわち)国(大阪府)智識寺(ちしきじ)の観音像(約18メートル、現存せず)と、近江(おうみ)国(滋賀県)関寺(せきでら)の弥勒仏(約6メートル、現存せず)を天下の三大仏と称したこともある。
[佐藤昭夫]
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…第5洞は座仏の石窟で,第6洞塔柱窟と一対をなし,第5洞は文成帝(在位452‐465)をしのんでいとなまれたという説があるが,ともに竜門様式に近づいている。第7,第8洞は前後2室の同規模窟からなり,大仏をおかず,列龕ばかりで壁面を構成し,計画的に設計された建築的構成を示している。時期は最初にひらかれた大仏窟である曇曜窟と併行か,やや下るとされる。…
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[南都復興と鎌倉彫刻]
1180年(治承4)平氏による南都の焼打ちはどちらかといえば偶発的なものであるが,東大寺と興福寺の二つの強大な古代寺院の壊滅は文化史上の大事件であり,その復興造営は鎌倉美術の歩みを急激に早めた感がある。まず東大寺でみれば,入宋三度を自称する勧進聖人重源の努力によって85年(文治1)大仏が復興されたが,その鋳造には宋人の仏工陳和卿(ちんなけい)の技術的参与がある。90年(建久1)に大仏殿が上棟,96年には大仏をめぐる脇侍や四天王などの巨大な木像群と同種の石像群がつくられた。…
… 日本に百済から仏教が公伝したのは538年であるが,《日本書紀》によれば仏教初伝時に〈釈迦仏金銅像一軀〉がもたらされている。日本最初の本格的造仏で609年(推古17)完成と推定される飛鳥寺金銅丈六釈迦像,623年製作の法隆寺金堂釈迦三尊像(鞍作止利(くらつくりのとり)の作)以下,7世紀末から8世紀初めの薬師寺薬師三尊像,752年(天平勝宝4)開眼の東大寺大仏まで,飛鳥,白鳳,天平期の造仏は金銅仏を中心として展開し,この期が日本の金銅仏製作の最盛期である。この時代にはこれら国家的規模の大像の造立以外に像高30cm前後の小像も多く作られ,これを特に小金銅仏という。…
…8世紀後半期の東大寺財政の危機に当たり収支を勘校して成果をあげ,あるいは造東大寺司の財政面にも良弁の目代として敏腕を振るい,財政運営に大きな功績をあげた。東大寺の造営修理についても,763年(天平宝字7)から771年(宝亀2)にわたって高さ11丈の大仏の光背を造り,大仏殿の天井を1丈上方に切り上げて光背を立て,764年には高さ8丈3尺の巨大な露盤を東塔に据えた。同年の恵美押勝の乱に当たっては良弁の命で新薬師寺の西野に土塔を建立,また称徳女帝発願の百万塔を納める塔の雛形を創案し,十大寺の小塔院はこれによって建立された。…
…そのころ造寺・造仏関係の工人たちの渡来も伝えられ,日本の仏像はまさに半島のそれの輸入,直模であったといってよいであろう。正史の伝える日本での本格的な造像の最初は,606年(推古14)の飛鳥(あすか)寺本尊,金銅丈六釈迦像で,これは損傷・補修甚だしい状態であるが同寺に伝世する像(飛鳥大仏)にあたると考えられている。これらの仏像の様式は半島経由とはいいながら,中国の6世紀前半の様式を忠実に学ぶもので,材料としては銅と木が主体であった。…
※「大仏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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