江戸中期のオランダ通詞(つうじ)、蘭方(らんぽう)医。長崎の人。名は永章、通称は幸左衛門、また幸作(幸朔)。耕牛は号である。通詞の家に生まれ、早くから家業のオランダ通詞に携わり、1748年(寛延1)大通詞となり、1788年(天明8)までに年番大通詞を8回勤めた。1790年(寛政2)ごろ大通詞を退いてオランダ通詞目付となる。その後、不都合のことがあったとして閉門、蟄居(ちっきょ)に処せられたが、1797年に許され、以降、蛮学指南役の任にあった。一方、彼は出島のオランダ商館にきた多くの外国人医師について西洋医学、とくに外科を学び、のちに吉雄流外科といわれる一派をおこした。「吉雄家学之科条」として、紅毛文字・紅毛方言・纏帛(こんはく)法・切脈法・腹診法・服薬法・刺鍼(ししん)法・治創法・療瘍(りょうよう)法・整骨法の10か条を定め、杉田玄白・前野良沢(りょうたく)・平賀源内をはじめ多くの門下生を指導し、蘭学の普及に大きく貢献した。『解体新書』序文は耕牛の筆になる。『紅毛瘍(よう)医鑑』『外療秘伝集』などを著したほか、日本最初の尿診断書『因液発備』を口述、発刊した。
[大鳥蘭三郎]
江戸後期のオランダ通詞,蘭方医。名は永章,通称は幸左衛門,のち幸作。耕牛は号。1737年(元文2)稽古通詞となり,42年(寛保2)小通詞,48年(寛延1)大通詞となる。90年(寛政2)までの間,年番を13回,江戸番を11回務めた。一時誤訳事件に連座し5年間蟄居(ちつきよ)したが,97年から1800年まで若い通詞たちのための蛮学指南を命ぜられた。一方,出島のオランダ商館付外科医たちから洋方医学を学び,吉雄流外科といわれる一派を興した。〈吉雄家学之秘条〉には,紅毛文字,紅毛方言,纏帛(てんはく)法,切脈法,腹診法,服薬法,刺鍼(ししん)法,治創法,療瘍法,整骨法の10ヵ条が定められている。前野良沢,杉田玄白,平賀源内など多くの門下生を養成,《解体新書》には序文を寄せた。訳著には日本最初の尿診断書《因液発備》をはじめ,《正骨要訣》《布斂吉黴瘡(プレンクばいそう)篇》などがある。蘭書,蛮品を収集し,彼の二階座敷は〈オランダ座舗〉と呼ばれ,長崎を訪れる文人墨客が足をとどめた。
執筆者:片桐 一男
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1724~1800.8.16
江戸中期のオランダ通詞・蘭方医。名は永章,通称は定次郎・幸左衛門・幸作,耕牛は号。1737年(元文2)稽古通詞,42年(寛保2)小通詞,48年(寛延元)大通詞となり,90年(寛政2)まで勤務。出島のオランダ商館医から医術を学ぶ。「因液発備」などの訳著があり,杉田玄白らとの交流が深く,「解体新書」に序文を寄せる。家塾成秀館には各地から入門者が集まった。吉雄邸2階のオランダ風の座敷は有名。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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